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2008年8月

2008年8月23日 (土)

朝鮮人慰安婦(2)

宜野座村から金武町にかけて何回もうろついた。ことごとく証言が拒否された。特に朝鮮の人々のことを訊ねると、その段階で断られた。米軍は当時、日本軍の掃討戦を展開しながら、次々と一般住民(避難民)のための「収容所(カンパン)」を建てていった。宜野座村は比較的早い時期から収容所がつくられ、沖縄戦終結の1945年6月23日以前にすでに米軍野戦病院が建てられていた。宜野座村の各字にも字誌が出ていて、私の見たところそのすべてに「沖縄戦」が記されている。宜野座・金武町の奥には恩納岳がある。そこには、第4遊撃隊(第2護郷隊)がいて、ゲリラ戦を行っていた。そのため収容所にいた人たちも日本兵にねらわれた。それでも米軍は宜野座の地の利を生かして多くの避難民を集めた。ピーク時には10万人を超える一般市民が収容所に入れられていた。現在の宜野座村の人口が5300人ほどだから、当時のすごさが想像できる。米軍野戦病院に関しては『宜野座米軍野戦病院集団埋葬地収骨報告書』というのに、詳しい「米軍野戦病院配置図」というのがある。そこに第18番として「朝鮮人婦人のテント」というのがある。その実態を知りたくて私は宜野座にこだわった。そのテント跡地は、今の宜野座小学校のグランドの南東にあたる場所である。グランドを囲む芝生の中にある。クヮーディーサの木の下である。

朝鮮の慰安婦の人たちは日本軍相手の慰安婦としてだけではなく、占領期の米軍人のなぐさめものにもされていたことは、他の地域でも証言されている。野戦病院の敷地内に公然と朝鮮の女の人たちの場所を設けていたことが知れる。

上原米子さん(今回の映画に登場)が、八重岳の日本軍の野戦病院跡で証言してくれた帰りの車中、その野戦病院に朝鮮の若い女の人がいたことを話してくれた。ことばや顔が違うのですぐわかったと言っていた。傷の手当、死体運びを手伝い、よく働いていたという。当然のように話す上原米子さんだった。米子さんも朝鮮人慰安婦たちがその後どうなったかは知らない、と言っていた。

座覇律子さん(今回の映画に登場)は、戦争中お母さんと妹さんと本部の山の中を逃げ回っていた。お母さんは病気で亡くなった。律子さんと妹さんは名護の田井等にあった孤児院に入れられたという。その孤児院で大柄な朝鮮の女の人が看護助手のような仕事をさせられていたことを覚えていた。孤児院の男の子たちが「朝鮮ピー、朝鮮ピー」と言うと、「ワタシモ、ニッポンジンヨ」と言ってやり返していたという。この朝鮮の女の人に、座覇さんはお世話になったことを何回も語ってくれた。

北部の字誌でもう少し朝鮮人慰安婦のことが記されてよい、と私は思っている。沖縄北部山原での一般住民の戦争体験が「朝鮮人慰安婦」の存在という鏡をもったとき、また別の沖縄戦の像を写すことができる。沖縄戦の体験証言がパターン化してしまうとすれば、それはそれらの体験を別の鏡で写してもう一度見てみる、そういう鏡がないことではないか。沖縄戦の証言のなかに一度もあらわれることのない「朝鮮人慰安婦」を内側にだかえこむ視点がもっともっと増えなくてはならない。証言者としてだれひとりいない「朝鮮人慰安婦」という〈不在の証言〉の重みを今後どう引き受けるのか、大きな問いかけである。『未決・沖縄戦』と名付けたこの映画の「未決」に、その問いを私なりにこめてみた。沖縄戦が「未決」であるという大切な扉を、「朝鮮人慰安婦」として持ち続けたい。

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朝鮮人慰安婦(Ⅰ)

今度の映画の中に登場している証言者のすべての人に私は朝鮮の人々についての質問をした。

戦争当時、第3遊撃隊に属し通信兵として動いた名護の宮城康成さんの家が近いこともあって、一回の話が3時間以上になった。康成さんの話がこの映画の骨格の一部を形づくった。2回目の収録のとき、こんな話を聞いた。

“日本の軍人は下司官以上は名護の旅館などで酒を飲み女性たちと接する機会を持っていた。それ以外の軍人は慰安所に行っていた。日曜日になると軍人が慰安所にずらっと並んで、手には「突撃一番」というコンドームを持っていた。一人20分ぐらいであった。慰安婦は朝鮮の人で若く色が白かった。子供たちが「朝鮮ピー」と呼ぶと「朝鮮ピーというな、ワタシモニホンジンよ」といって睨み据えた。夕方になると朝鮮の女の人たちは浜辺ではしゃいでいることもあった。買い物に来るときは朝鮮の服を着ていて目立つ存在だった。戦闘が激しくなるといつの間にかいなくなっていた。康成さんたちもコンドームが渡されたが、まだ子供だったからそれを銃の先につけて銃口がぬれるのを防いだ。”

慰安所に行った軍人は、もちろん有料であった。切符のようなもので支払っていたという。入口に親方のような人がいてさばいていた。名護の慰安所は現在の名護の市役所の北どなりで2年ほど前まで市の保育園があったところである。今は市役所の駐車場の一部となっている。私は復帰前に名護で半年ほど住んでいたことがあり、その当時でも慰安所のあたりは、すぐ前が浜で名護湾がずっと広がったところだった。モクマオの林があって、墓がその近くにあった。

康成さんの話を聞いて、私は当時の慰安所あたりを頭にえがいて、その像のなかを歩いた。朝鮮の慰安婦が浜辺ではしゃいでいた姿が浮かんできて、そこに、私の知りたい沖縄戦が見えてきた。戦闘だけが戦争ではない、という当たり前のことが見えにくくなっている中での私なりのこの映画づくりの大切なひとときであった。朝鮮の女の人たちの性器は、日本帝国軍人をあざ笑うかのように泣いていた。いったん動いてしまったら止めようもなかった今次の太平洋戦争のなかで、朝鮮の女の人たちの性器は〈不在の証言〉の極北として、私たちの前に置かれたままになっている。それは、下司官以上を相手にしていた首里の遊里の女性たちと微妙な違いを含ませて在り続けている。

『朝鮮人軍夫の沖縄日記』(金元栄)は私に不思議な出会いをもたらした。東村での証言者を求めてもがいていたとき、人づてや電話での打診を通して証言が得られそうになってきた。話も進んだところで、「ダメだネ。」となったり、「息子と話してみたらやめとけと言われた」とか、「迷惑がかかるかもしれんしナ」と気まずそうに断られることが重なった。東村ではそういうことが続いた。授業の合い間に車をとばして行ってのことだった。不思議にしょげることはなかった。なんだか拒まれたことによって自分の進む方向がむしろある確信を持ち始めた。拒否の「重さ」が私を励まし続けた。巡り合いを求める気持ちが湧いてきた。国頭村の山のなかでの取材を終えて、東海岸の道を帰ってくる時、川田という部落をさしかかった。もう夕方だったが、私に『朝鮮人軍夫の日記』(金元栄)の文章が浮かんできて離れなかった。その時手伝ってくれていた職員に、川田の共同売店に行ってもらい証言者がいないか訊いてもらった。福地屋という食堂の人なら知っているかもしれないとの情報を得て、そこに行ってみた。私は『東村史』にこういう証言があるんですがと言ってみたら、そこの主人がその『東村史』の証言者の息子さんだった。金城允士さんである。まったくの飛び込み取材だったのだが允士さんが朝鮮の人のことを知っていそうな人ということで、そのお宅に連れて行ってもらった。そこで得た証言は今回の映画のなかに入っている。新城哲夫さんである。突然だったので哲夫さんは記憶をたぐり寄せながら話してくれた。聞きながら私は『朝鮮人軍夫の日記』(金元栄)のことを思っていた。同国人である朝鮮人慰安婦のための慰安所づくりにかり出された朝鮮人軍夫のこと。その時の朝鮮人軍夫の思いが絵のように伝わってきた箇所を思っていた。山原での沖縄戦は、沖縄戦の埋もれた一部を掘り起こすということだけではありえないことをその時実感した。川田でも慰安婦は「朝鮮ピー」と呼ばれていた。川田にあった旅館に最初はいて、それから材木の切り出し場所に近い所に移動させられた朝鮮の若い女性たち。川田でも最後にこの女性たちがどうなったのかの証言は得られなかった。いまでは福地ダムの下に沈んだキンジ山の近くで、朝鮮人慰安婦と朝鮮人軍夫は時に顔を合わすこともあったに違いない。東村の山々の裾野に水をたたえた福地ダムは、朝鮮の人たちの運命というにはあまりにも苛酷な記憶をのみ込んでしまった。潮岸にイタジイが茂る東村の山々を、その後私は何回か見てまわった。大きなウラジロガシの樹が見えた。歯ぎしりしながら刻んだ朝鮮の人々のツメ跡がないと誰が言えよう。戦争は末端においてこそ検証されなくてはならない。

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第3遊撃隊のことなど

現在の名護小学校の校門の右側の丘に、「少年護郷隊」の碑がある。校庭からも登れるようになっていて一風変わった風情である。村上治夫大尉のひきいた第3遊撃隊は秘密ゲリラ戦部隊でもあったため、地元では「第一護郷隊」と名のっていた。そのためその碑は、自分たちの故郷(ふるさと)を護る少年たちの碑としてある。

日本軍は、沖縄戦になった時には、規律や規則といったものからもずいぶんと遠い所にいってしまっていた。宇土武彦大佐の部隊は、ある意味で日本軍隊の末路の姿を映し出したものでもあった。

沖縄赴任のための海路で悪石島付近で米軍の魚雷に狙い撃ちされた。5000人近い兵のうち生き残った500人足らずの兵をひきつれて沖縄に着いたのは1944年2月頃であった。沖縄守備隊の中での名前は独立混成第四四旅団であった。名護に入ってきたときの宇土部隊の姿は、沖縄山原の一般住民を落胆させるものだったという。日本軍の勇姿をと思っていた人々にとって傷つき疲れきった宇土部隊はなんとも頼りないものであったのだろう。本部町の証言が言うには本部半島に据えられた国頭支隊の大砲の製造年は「明治」とあったという。一発を撃ったら砲座が壊れて後は全く使いものにならなかったということであった。平山大尉のひきいる部隊の大砲は一発も発射することはなかった。宇土大佐の命令が下らなかったからで、憤怒した部下が抗議に行ったところ宇土大佐の部下に逆に斬り殺された。平山隊長は朝鮮の人で、この後、伊平屋島に逃れた。『島の風景』(仲田精昌)にこのことは記されている。

私は、今回の映画のなかで、国頭支隊のことについてほとんどその内容については触れていない。「任務」および「構成」についてのみ少し触れただけである。『本部町史』や『伊江村史』の中に残されている「陣中日誌」を読んでいたが、今回のなかには意図的に入れなかった。「軍人」と「一般住民」の戦争中の埋めがたい違いを意識していたからである。制作している途中で、何回も「陣中日誌」にあたったがあえて黙殺した。

『真空地帯』,『神聖喜劇』,『レイテ戦記』などを読んできた私にとって、国頭支隊のなかに分け入っていくことはある覚悟がいることであったのだろうか。少なくとも山原での沖縄戦を考えるとき、その軍隊の内部に入っていくことは必要なことだろう。映画にできるほど、私の方に十分な資料がなかった。しかし知りたいと思う日本軍人はいた。国頭支隊長宇土武彦,運天港の海軍の渡辺大尉,第3遊撃隊隊長村上治夫中尉,伊江島の井川少尉などである。一度こんなことがあった。証言者まわりをしているとき、大宜味村で証言を拒否された方がいたが、その人の雑談のなかで村上治夫中尉の話が出た。体は小さいがきりっとした隊長だった、と懐かしそうに話していた。村上隊長に関しては『護郷隊』という本が出ていて、そこには村上部隊のことがかなり詳しく書かれている。戦後自分の部隊でなくなった人々のために、碑を建てられた人でもある。復員して貝がらの販売会社をされたという。私は大阪の村上さんの家に何回か電話をしてみた。いつも留守で体でも具合が悪いのだろうかと案じていた。何回目かの電話でご子息が電話口に出られた。その方がたまたま沖縄に来るということで、名護の道の駅でお会いした。20分ほどの立ち話であったが、ご子息の顔のどこそこに写真で見た村上隊長の面影がある気がしてなつかしかった。『護郷隊』は内側の人々によって書かれたもので、少し甘い所があるが、上地一史氏の書かれたものなど、今回の映画のなかでも大変に助かったものが含まれている。村上大尉は、友人の死や部下の死に対して心の整理がつかずに1945年6月25日の沖縄戦終了後も8月15日の日本軍の無条件降伏後も、名護の山で部下とともにすごし米軍の説得で翌年の1月頃に下山し収容所に入った。20代の若い日本軍の選択であった。

おそらく、山原での沖縄戦を軍人もしくは日本軍の側から書く(描く・撮る)人が出てくることだろう。それは「戦争」というものの理解にとって大切なものに違いない。少なくとも、国頭支隊長宇土武彦大佐については書かれる必要がある。およそ帝国軍人という像(イメージ)からはなれ、敗走を重ねながらも必ず女性を連れて、しかも部下に前の女性を探させた帝国軍人は追ってみるに値する。本部町八重岳・真部山の支隊本部にいて、伊江島防衛の役割を担わされていたにもかかわらず後方支援のすべてを放棄し敗走に敗走を重ねたこの帝国軍人に私は興味を抱いている。絶対的命令の権限を一手に握っていた支隊長の戦争責任はもとより、この職業軍人の沖縄戦とくに山原での沖縄戦観を訊いてみたい気がずっとしていた。彼が伊江島にむけて隊本を一発も撃たせなかったことが米軍の報復攻撃から本部町や今帰仁村の人々を守った、という結果論的判断ではなく、宇土大佐のその時の判断の根拠となったものを知りたいと今でも思っている。屋嘉の収容所でも彼はちゃんと一緒に敗走した女性たちのことを要していたのだろうか。復員後に残した報告書「陣中日誌」は、彼の部下が記録したものだろうが、こうした公式の報告書には出てくるはずがないものでしかわからないものが戦争にはある。

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2008年8月18日 (月)

字誌(字史)・個人誌を読むなかで(第三話)

『辺土名誌』(上・下巻)

どういうわけだろう。私は『辺土名誌』が大好きなのだ。2007年7月発刊のもので字誌の中では新しい。編集顧問の一人の知花實さんは、今回の映画に登場していただいた。

山原での沖縄戦において国頭地区方面は戦闘というものはほとんどなかった。中南部からの避難民が狭い各集落にどっと入ってきたことによる食糧難による苦しみと、友軍(日本軍)敗残兵による脅迫・虐殺事件があった。特に殺到してきた避難民とともに味わうことになった極限状態での避難生活は国頭地区での沖縄戦の特徴である。

米軍は本島最北端の国頭での収容所設定-占領政策実施を素早く行うために、もともと地元民のいた部落から住民を追い出し、日本兵が隠れることがないようにと家屋に火をつけ放った。辺土名ではほぼ全ての家が焼き払われた。日本の敗残兵と圧倒的な米軍のはざまで国頭地区の戦争と戦後はほぼ同時並行して進んでいった。

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字誌(字史)・個人誌を読む中で(第二話)

『本部町史』は資料編1・2がある。両方とも1000ページ近いもので、北部の字誌類のなかでは質・量ともに充実しているものの一つである。どこを読んでも飽きさせないものが含まれている。本部町にはこの他に、沖縄戦をあつかった『町民の戦時期体験記』が別にある。本部町民の沖縄戦証言集ともいうべきこの本は貴重なもので近いうちに続編が出ると聞いている。楽しみにしている。

この『体験記』を読みながら、私は本部の地を何十回と歩いた。町のスージグヮー(路地)を川沿いを、山に続く小路を頭のなかに残った証言をたずねるように巡ってみた。本部はカルスト台地に囲まれた町で、どこそこに琉球石灰岩が時に大きな口をあけている。渡久地から先本部に行く大きなカーブを左に入って山間の方に行く。振り返ると、左の方から瀬底島、水納島、そして伊江島が一望できる。軍艦の形をした伊江島が白い浜辺とともに見える。左手前にひときわ白い砂浜の水納島が見える。沖縄戦で米軍が伊江島上陸を前に砲座をすえた島でもある。日本軍の斥侯(せっこう)が米軍の海の動きを監視したコンクリート製の見張り小屋(今もある)から見たとき、おそらくこの海に歩いて伊江島に渡れるほど配備されていた米軍船団を想像した。行かねばならないと思っていたが、その一歩を踏み出せないでいた私に、この見張り小屋からの伊江島の姿はある強い意志で私の背中を押した。妻の義理の伯父の佐々木良彦さんが戦死した島であり、前に3度ほど訪ねたことのある伊江島であったが、私はこの映画を作っていく時、大きなためらいが伊江島にはあった。私の背中をさらに強く押したのは、本部に司令部を置いていた国頭支隊(守備隊)の傘下にあった清末(きよすえ)隊のことであった。本部生まれの高校教師(生物の)であり、地元の歴史研究者でもある友利哲夫さん(今回の証言者のひとり)の導きで、私ははじめて清末隊にふれる機会をもった。清末隊の司令壕を案内されたとき、友利さんのことばに力がこもっている、と私は感じたことがあった。カマで草を刈りながら進む後ろ姿に、ある力を感じたのはなぜだろうか。カルスト台地の地形を利用した司令壕の入口に立った友利さんには、何か強いものがこもっていた。かなりの勾配で下に続くその司令壕の暗闇の方からひんやりとした風が吹きぬけてきた。人口には、壕の中に降りてゆくためのロープがあった。歩哨(ほしょう)が伝令をもって走った小路が草むらの中にずうっと続いていた。

国頭支隊の隊長宇土武彦大佐が、1945年4月16日頃に連隊本部のあった八重岳を捨て、多野岳(たのだけ)に逃げのびたにもかかわらず、最後まで戦って全員戦死した清末隊。伊江島で玉砕した井川少佐と同じ年であり、心のどこかで通じるところがあった清末体長は、海のむこうに見える同僚の死を傍観できなかったのだろうか。伊江島援護のための大砲を一発も撃たせずに敗走をくりかえした宇土武彦大佐を、清末氏は許せなかったのかもしれない。私は、それはありえる、と思った。私もどちらかといえば、そういうタイプの人間だろうと感じた。皇国日本の不滅を信じた行動というより、ひとりの戦友への共に生きる証として、清末氏は部隊を引き連れてとにかく徹底的に戦ってしまった。戦前の教育を受けた若い血が、選びとった無残な死に、友利さんはある共感せる憤怒をいだいていたように私は感じられた。

本部の証言集にも出てくるのだが、宇土武彦大佐が大砲を撃たせなかったからこそ米軍の報復を受けずに多くの住民が助けられた、ということは事実だろう。卑怯者ということのなかにひそむどんでん返しの「良き判断」は生き残った町民の当然の評価であるだろう。戦死した清末隊長には到底認められないこのどんでん返しの「良き判断」に友利さんの何かが激しい違和感を抱いたのだろう。私にはそれが伝わってきた。「戦死やあはれ」の裏側にこもる激しい憤怒は時に行き場のない哀しさの迷路に入ることはありうる。と私は思う。それは、沖縄戦から飛翔し、人間にまつわるすべてのことと、どこかで通じている。

一度、私は寝付けない夜に、車を走らせて、清末隊の碑の建っている所にいったことがある。真っ暗な八重岳だったが、不思議に怖さを感じなかった。大ぶりな碑の縁石にすわって、タバコをすった。生き残ることと、死することの間にある埋めようもない暗渠(あんきょ)をずうっとくぐって、山原での沖縄戦を考え続ける座石がほしかったのだろうか。殉国美談とは紙一重でつながっていることを拒む「あはれな戦死」を思った。その「紙一重」の入口とは必ずといっていいほど「朝鮮人慰安婦・朝鮮人軍夫」の〈不在の証言〉が立っていた。朝鮮人慰安婦・朝鮮人軍夫の〈不在の証言〉に縁どられた清末隊のの「あはれ」が、私の伊江島行きを押してくれた力となった。

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字誌(字史)・個人誌を読む中で(第一話)

沖縄にきて一番はじめに読んだ字誌は私が住んでいた『嘉陽誌』である。もう10年も前のことになる。当時、琉大の農学部の教授だった嘉陽出身の翁長謙良氏が中心になって編まれたものである。全八章からなっていて、私のごく身近かな人や嘉陽の自然,農業,文化,教育,スポーツ,芸能,年中行事の歴史をたどることのできる450ページほどのものであった。第三章 教育・スポーツにエピソードとして東村川田部落とのスポーツ親善競技大会のことがあった。酒の席上での口論の結果として生まれたこの大会のことが忘れられない。道としてもまともなものもない山原東海岸で、1949年に20kmも離れた部落の親善競技、しかも泊まり込みで行われたこの大会は、私に強い印象を残した。その印象はこの映画の中にも込めたつもりである。

今回の映画作りで、『嘉陽誌』を読み、特に第七章・「戦争・兵事」をあらためて読んだ。全9節から成るこの章のなかの第9節、「久米島虐殺事件」は最初に読んだ時と同じように私をとらえた。久米島虐殺事件は、1945年6月27日に久米島具志川村に米軍が上陸してからおこった日本兵による住民虐殺事件である。米軍の捕虜となった安里正次郎久米島郵便局員が、当時久米島にいた日本軍守備隊(隊長:鹿山正曹長・兵員約30人)へ米軍の降伏勧告状を届け、スパイ容疑で殺害(妻、カネ子も投身自殺)された事件である。その後守備隊は宮城栄明家族3人,比嘉亀吉家族4人,小橋川友晃北原区長,糸数盛保警防国長の9人を銃剣で殺害した。鹿山曹長の凶行は、日本が降伏した後も続き、8月18日の旧盆の夜谷川昇一家7人が虐殺された。鹿山曹長はその後9月7日に米軍に降伏し、無傷で故郷に復員した。

この久米島虐殺虐殺事件が場所も全く違う『嘉陽誌』になぜ載ったのかという理由はこうである。谷川昇さんは本名具仲会(ク・チョンホ)さんといい、朝鮮の人である。虐殺の理由はスパイ容疑であった。その具さんの内妻のウタさんは旧姓を知念ウタといい、名護市嘉陽の出身である。当時11才になる長男を頭に3男2女の子供も含む7人すべてが虐殺された。

私たちの家族が22年前嘉陽に移り住んできてお世話になった方々のなかに、屋号を「ソーボ屋」をいう温厚なおじいがいた。嘉陽の上の山でパイナップルを分けてもらうことも何回かあった。ソーボ屋のおじいの畑は嘉陽の集落と海が一望できるうっとりするような光景がひろがっている所だった。私が『嘉陽誌』を読んだのは、そのソーボ屋のおじいが亡くなってからだった。

遠く離れた久米島であろうと、嘉陽の出身の人にかかわることならできるだけ載せようとするこの編集方針に私は共感した。あのソーボ屋のおじいの妹さんが久米島虐殺事件の犠牲者の一人であったことはずうっと私の記憶の棚に残った。しかもその妹さんが朝鮮の人の内妻であったことも同じ棚にしまわれた。

今回の映画の中で、私は『嘉陽誌』を「参考文献リスト」のなかに入れた。映画のなかには一度も登場しないのだが、制作している間、『嘉陽誌』はずっと私の頭のなかにあった。私は記憶の棚を時々あけて何か遠くて近いものをゆっくりと触っていた。「久米島虐殺事件」はそうして私のなかにいまも在る。『未決・沖縄戦』のなかで、私が朝鮮人慰安婦・朝鮮人軍夫にこだわった底の方の1つに『嘉陽誌』があった。

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