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2008年10月

2008年10月 8日 (水)

大城貞俊の影

 評論『沖縄・戦後詩人論』・『沖縄・戦後詩史』、小説『椎の川』などの作家、大城貞俊さん。現在、昭和薬科大学付属高等学校・中学校教諭でもあるこのウチナンチューに、『未決・沖縄戦』は影響を受けた。そんなことを言ったら大城さんに笑われるかもしれない。

 今回のこの映画のなかで一番苦戦したのが、宜野座地区での証言インタビューだった。インタビュー許可の近くまでいきかけるのだが、それ以上に進まない。その中に、「長男がやめとけと言うから」という断りがあった。援護法がらみで、証言はまずいのだろうと察したが未練が残ったままになった。収容所時代には、10万人を超す避難民がいた宜野座地区。孤児院・養老院四ヶ所、集団埋葬地九ヶ所、学校十ヶ所、市役所四ヶ所、を数える。そこに米軍の北部軍政府と米軍野戦病院があった。いたる所に避難壕が作られ、字誌を見るとそれぞれの地区名による「壕(ガマ)」とそこで亡くなった人々の氏名が次々に列記されている。空襲で焼失した家屋、米軍に取り壊された家屋、米軍に焼き払われた家屋、爆弾が投下された場所などが、各地区の地図とともに一軒一軒の名とともに記されている。

 私は何回も足を運んで、地図とにらめっこをして歩きまわった。地元住民のおよそ三十倍の南部からの避難民がいた宜野座地区は、沖縄戦の重要な縮図である。戦後の沖縄復興の出発点となった沖縄諮詢委員会もこの地区にあったことを思えば、宜野座をはずして沖縄戦は語れないと言ってもいい。おりしも一九四五年十月九日、大型台風(風速62m)が襲い、アメリカからの食料船が沈没した。それによって食料不足がおき、多くの避難民が死亡することにもつながった。

 宜野座博物館には、沖縄戦での宜野座地区の様子が常時展示されている。ガマから掘り出された遺留品が当時のまま展示され、集団埋葬地の大型地図が克明なイラストとのもとに架けられている。博物館内の照明が暗く、撮影ができなかった。宜野座村立博物館紀要『ガラマン』を中心的に編集している主幹の知名定順さんが、見るに見かねて照明を貸してくれた。「チブタ原共同墓地」の復元絵のシーンは、その手助けで撮影されたものである。鳥瞰図なのだが、墓を掘る人、死体を運ぶ人、墓標を立てる人などが子細に描かれている。そこに、ひとりの老人がツエをついて所在なげにどこかを見ているのがある。小さくて顔の様子も衣服の細かな所も不明。右手に持ったツエが力強く、私にはこの老人が深く記憶に残った。米軍の監視の下で行われたこの集団埋葬をなんとか追ってみたかった。埋葬者の氏名を記録していた方がいることを聞かされていたが、確かめる時間がなかった。途方にくれていた頃、『G米軍野戦病院跡辺り』という小説が出たことを新聞で読んだ。Gが宜野座であることはすぐにわかった。著者に大城貞俊とあった。どういうわけだったのだろう。私はその記事を見て「ああ、やっぱりナ」と呟いた。不思議にもそう呟いたのだ。『椎の川』を通してハンセン病療養所愛楽園の取材に行ったのだが、同じ作者の本が宜野座に向いていることに不思議な縁を感じずにはおれなかった。映画の第一版を送ったら、ていねいな返事と『G米軍野戦病院跡辺り』が送られてきた。すぐに読んだ。独立した四話から成る小説を、夢中で読み終えたことが忘れられない。バラバラな四つの物語が、あるひとつのかたまりとなってユラユラ私の心のなかで動いて止まらなかった。『未決・沖縄戦』は、この小説を通して改訂を加えられることになった。映画のなかで宜野座地区を取り上げていないことに対する私の不満と焦りはいくらか癒された。しかし、課題の方がよりはっきりとしてきたというのが正しく、やり残しをいつかていねいに撮っていきたいと思っている。字誌類を読む限り可能だと思うのだが、たいへんなエネルギーがいることは間違いない。『G米軍野戦病院跡辺り』がそう伝えている。ただこの本から、私は、沖縄戦をドキュメンタリー映画化する手法のヒントを得た気がいしているのは間違いない。大城貞俊さんに感謝している。そして、この小説が多くの若者に読まれることを望んでいる。

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