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2008年12月

2008年12月17日 (水)

<逆格差論>のひとつの試みとしての『未決・沖縄戦』

 今回の沖縄戦の映画を、北部地域に限定した時の気持ちの揺れを記しておく。私自身にとっても不可解なところがある。
 本島北部に住んでいると、いろんな意味で中南部(都市部)との地域格差を聞くハメになることが多い。それは何も、北部が劣っているという格差だけではない。むしろ、都市部が失い、今では手に入らないものが北部には残っているというプラスの格差を、私は感じてきた。
 やっかいなことは、〈所得〉や〈利便性〉におけるマイナスが声高に叫ばれ、それが政治に利用されるということである。例えば、1998年の名護市民投票のあたりで、時の比嘉鉄也名護市長周辺が、“劣っている北部を中南部あたりの水準に持っていくことが北部の悲願である!”とぶち上げたことだ。そして、その悲願達成のためには、普天間基地移設を名護市が引き受けるという「苦渋の選択」をするということ。その見返りとして振興資金を国からおろしてもらうということ。ここ20年来必ずといっていいほど出るこれらの一連の政治的科白(セリフ)に私はうんざりしていた。しかも、商工会が、その科白の現実的バックボーンとなり、いとも簡単に「苦汁」が「利権」と、結びつくことには、うっとおしさを通りこして、怒りがわいてきていた。
 こういうことを言うと必ず、お前は生活がちゃんとできているからだ,とか、お前は大和から来たから北部の苦しみはわからない、と,これまた安っぽい鋳型の科白が出る。当時、私は、普天間米軍基地の名護市辺野古沖への移設に反対し、市民投票の結果 ― 52.83%の市民が基地移設ノーを選択した― を勝手に反古にした市長を裁判に訴えた。案の定猛烈なバッシングで私の会社はK・O寸前までやられた。仕事場の前まで宣伝カーでわめき立てられ、怪文書まで出された。その時から8年間私は給料というものをもらったことがなく、ひたすら、自己責任を果たしてきた。とばっちりは世の常で、ひつこくついてまわる。回復に10年がかかった。
 当時、「苦渋の選択」をし、それを根拠に比嘉市長は辞任をするという挙に出た。新しい市長を選ぶということは、基地問題だけを争点にするわけではない。岸本建男氏という北部でのサラブレッドを立てて、もうれつに地域ナショナリズム(?)をあおりたてた。楽観していた基地ノーの候補者はまさに「苦汁」をなめることになった。
 岸本新市長となったとき、私は、彼が若いころ心血を注いでまとめ上げた『名護市基本構想』、特にその中の〈逆格差論〉を読み返していた。内容を簡単にいうと、都市部と北部との「格差」を逆手にとって、これからの日本は、格差の中にうまっている文化的・歴史的・豊かさを1つの「ストック」として認識し、それを市政のなかに反映させることこそが、北部山原(やんばる)の未来づくりである、というものである。おそらく東京から帰って間もない岸本氏には、うまれ故郷が東京のような姿になるのは耐えられなかっただろうし、経済優先に突っ走る日本の姿に直観的危機意識があったのだろう。その後の岸本市長は、利益誘導を市政運営の柱とし、国との接渉のなかで「現実路線」という名の振興資金だのみに終始した。これまた沖縄の政治の鋳型であり、その後の沖縄の首長選の争点の定番とも重なっていった。そんななかで岸本氏は逝ってしまった。
 私は、個人的に岸本前名護市長とは深くつきあい、沖縄人のなかで唯一保証人にもなってもらった人でもあった。助役になった頃、助役室でしたたかに呑んで、吉本隆明・花田清輝論争のことなどを話したことがあった。屈折した美意識が深酒の底の方にあった。その「屈折した美意識」・「ねじれた思考回路」は、市長としての岸本建男氏を離れて私のなかに残った。私の沖縄理解のひとつのコアとして今も残っている。ひ弱ではあるが、どこかピンとしたものが今も残っている。
 『未決・沖縄戦』が北部にこだわった理由のひとつに、故岸本建男氏があることを記しておきたかった。それは、シマナイチャー(島内地人)の全くもって奇妙なこだわりにすぎないし、それ以上でも、それ以下でもない。〈逆格差論〉は、提案者たちの手をはなれ、新しい息吹を待っている気がしている。そこには、日本人が未経験のしなやかな「革命」の芽がある。ボールドウインの『次は火だ』に通じる普遍性がある。「じんぶん革命」と言っていい。今もそう思っている。 (2008.12.17)                       

                                     

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