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2009年4月

2009年4月15日 (水)

アメリカの一水兵の「沖縄戦日記」について

 昭和63年(1988年)1月27日、名護市立崎山図書館宛に、ひとりのアメリカの兵士だった人からメッセージ付きで二冊の本が送付されてきた。沖縄戦に従軍したひとりの米軍水兵、セア・ビビンズさんからのものであった。
手紙には、こう記されていたという。
“関係者の方へ。私は1945年4月12日、名護の図書館から二冊の本を持ち帰りました。しかし一冊は紛失してしまいました。それで持ち帰った一冊と私の著書を一冊お送りします。誠に申しわけないことを致しましてお詫びの仕様もございません。”

 今回の『未決・沖縄戦』を制作しながら、私はビビンスさんの『沖縄戦日記』を3回読んだ。1944年1月27日から1945年11月1日までの日記であるが、『沖縄戦日記』の中には、1945年3月18日(日)~1945年11月1日(木)が収録されている。南洋諸島での戦闘から北上し、沖縄へ向けての航路上から帰国への航路上の約7ヶ月の記録である。もちろん主眼は壮絶きわまる沖縄戦(「アイス・バーグ作戦」)である。この映画の中に一度も登場することのないこの『日記』は、沖縄戦を米国軍人の側からとらえたものとして私の中で生き続け、鏡のひとつとなり続けた。私はこの『日記』に接するたびに〈天皇制〉について考えることになっていったことに驚いた。沖縄戦を日本軍側から見ると必ずと言っていいほど直視せざるをえない〈天皇制〉、しかも、そのイデオロギーにとりかこまれ、時に恭順に、時にかくれみの的に使われ続け、また逆に人々をしばり続けた〈天皇制〉と、向き合わざるをえなかった。それは、私の幼児体験(特に君が代唱歌体験)の中で悪夢のように刻印された「テンノー」体験を呼び覚ますものだった。

  幼稚園体験をもたなかった私にとって、小学1年から歌わされた意味不明の不気味な歌、「君が代」。総毛を立てて体を震わすほど嫌悪したあの「君が代」。歌詞の意味も全くわからず、どこで切って歌うのかもわからずにとちりまくる私を、色白の長身の桑原先生が眼をかっと見開いて見据え、“ふんばれ!”とのひと言の後にくるあの激しい平手打ち。左の耳から下あごにかけて何本もはしる指の跡。理不尽をとおりこして、小学生の私は立ち尽くした。悔しくて、あの指をくいちぎって死んでもいいと何度思ったことか。私の「テンノー」体験はあの時立ち尽くしたままである。みじめなほどいじけた私の姿のままである。

 『日記』から3つだけ抜き出してみる。

1945年5月20日(日)〔伊江島での激闘の後〕
 今日はすべて静かだった。午前0時、私は悲惨な光景を見た。我が陸軍は約400名の年寄りや女・子供達を浜辺の方へ移動させた。彼らは住民に野蛮に振る舞った。この連中の何名かを米国にいるときから知っている。ちょっと権威を与えられると、これまで見た最も愚かで無知・野蛮な人種に成り下がる。連中は住民を銃で小突き、家畜のごとく追い立てている。住民には実にすまないと思う。
1945年8月10日(金)
 午後11時、大きな軍隊輸送船が停泊所に入ってきて錨を降ろした。
午後1時、我々はそばに寄った。彼らは荷物網を船べりから降ろしたので、私達は荷降ろしを始めた。彼らは国から出てきたばかりの新しい部隊だった。彼らは我々に、空軍が日本に新型の爆弾を落とし二つの都市を破壊したと伝えた。それではこの大虐殺はまだ続いているのだ。この人間と呼ばれている者が、こんなにも愚かで残酷になれるのかと思うと嫌になってしまう。人間なんて動物としても分類されるに価しない。動物はこんなにまで殺し合ったりしないのだから。
1945年10月6日(土)
 LCTに戻った。ここの島は、私にはもう何の関心もない。この島には大きな基地以外に何もない。米軍は、住民がここで持っていたものをすべて破壊したのだ。米軍が、この人達をこのように扱うのは恥ずべきかつ不名誉な行為だ。彼らに罪はなく、そのようなやり方で住民を扱う「白いならず者」の仲間には加わりたくない。

 沖縄本島北部での日本軍の立ち振る舞いのすさまじさを、今回の証言者たちの口から私は聞いていた。その時私がイメージした「日本兵」は1つのマス(かたまり)であり、ある鋳型におし込められた群れであった。「テンノー」という印籠をぶら下げた群像といってもいい。ビビンズさんの『日記』が、それをきれいに写し出している。私には、その写し方がうらやましかったのだろうか。
 “白いならず者の仲間には加わりたくない”というビビンズさんは、1911年(明治44年)10月の生まれで二児の父親であった。米国北西部のアイダホ州スネーク川の流域で牧畜を営んでいた農夫であった。白人文明への批判の眼が、マスとしてでなく一個人としてきちんと保たれていることに私は率直に感動した。この視線は、なにも当時の米軍の行為に対して向けられているだけではなく、現代においても通用するものであるのがわかる。この鏡に私自身を写すことを私は映画をつくりながら何回もしてみた。そのたびに足がすくむ思いがした。小学校の時、君が代斉唱の際になぐられなかったことがない私にとって、その足のすくみは、自分を突き刺し、なぐられてもまだどこかテンノー制にしばられている自分を見つけることとも重なっていた。テンノー制に対する根源的離陸の礎を私はもっていないことをおそるおそる自覚することになっていった。アイダホの農夫に何度も何度も私は打ちのめされた。
 43年前に持ち帰ってしまった二冊の本のことを忘れずに、そして、そのことをあやまる77才の一人の農夫に会ってみたかった。私たちは、いまだテンノー制から少しも自由になれないでいる。そのことを忘れないようにここに記しておきたい。

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東村の中村保さんのこと

  『未決・沖縄戦』は、山原の字誌(字史)に支えられたものであることは前にも書いた。『東村史』はその支えのなかでも大きなもののひとつであった。この『東村史』を完成にこぎつけさせた人が東村教育委員会の中村保さんである。私とほぼ同じ年の小柄な保さんを私は尊敬している。この映画の試写会にお孫さんを連れて保さん夫婦は来てくれた。
 映画を見おわった後、“『東村史』を取り上げてくれて嬉しかった。”と言われ手をさしのべてきた。この掌で村史を支えきったのかと思うと、こみ上げてくるものがあった。その後、保さんと何回か話すチャンスがあったが、『東村史』の完成までの苦労はここでは到底書けない。東村の山、川、海、そして暮らしを知りつくした人でないと編めない『東村史』に私は何度も励まされた。キンジ山の製材所にまつわる朝鮮人軍夫のことはこの村史がなかったら私は知る由もなかった。東村での朝鮮人慰安婦のこともこの村史から知った。東村を何回もまわりながら苦しくなるとこの村史にすがった。

 試写会が終わってしばらくして、中村保さんが私の職場にひょっこり姿を現した。いつもの突然である。三回目にたまたま私がいて話をした。やおら大型の茶封筒を出し、書きあげた「童話」を見てくれ、という。六十を超した男の童話にたまげたが、保さんならありうると思えたのが不思議だった。『オッパイ山と東の森』と題された短い童話だった。少年のように眼をキラキラさせて語る保さんを私は見ているだけだった。
 その後何回か書き直したものを持ってきた。私はとっさに、
“保さん、DVD童話集にしましょう!”
と言った。なんのあてもなかったがそう直感した。保さんに何回か連れて行ってもらった東村の森を思い出しながらそう口にした。尋常な感覚ならとても人を連れて行くことなど思いもつかない場所に連れて行ってもらい、その度に私はすごい人だと思っていた。長ぐつがまことによく似合う人だった。
 ある日、東村の森に見せたい所があると言って連れていかれたことがある。山道をどんどん先に行ってしまう保さんのうしろをカメラを担いで私は必死になって付いていった。寄り道をしたい私にいさい関心を示さず、どんどん先に行ってしまう保さん。遅れて頂上に着くと、そこにアルミの梯子(はしご)がセットしてあった。どうぞ、と言って保さんは梯子を支え始めた。キョトンとし、ためらいながら、よたよた上がる私を見ることもなく保さんは下を向いたまま“きれいでしょう!”と言う。梯子のてっぺんに登って恐る恐る体を立ててみた。樹海!そしてその奥に広がる海!イタジイを中心とする樹海がそのまま本物の海とつながっていた。緑色のセーターのような樹海の肌を雲の影が流れていた。カメラを回すどころじゃなく、私はポカンとしていた。下を見ると保さんは下を見ながら梯子を両手で支えていた。そのままの姿で、“右の方が○○、左の方が○○”と、まるで見えているかのように話し続けた。今日のために、一人でこの梯子を担いでここに据えてくれたのがわかって、私は風の中に涙をぶちまけた。なんだか、保さんそのものが樹になっている気がした。こういう変人がいなくなりつつあることを自分の身をつねって思った。時代がなんとも「変人」をもてあましてしまっている。これは淋しすぎるし、貧しすぎる。

 近いうちに、中村保さんの童話のDVD化を進めようと思っている。それはどこかで『未決・沖縄戦』とつながっていると私は思いこんでいる。六十を過ぎた変人の童話。私の愛着は尽きることがない。そうでなくちゃ!と思うのだ。

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伊江島の新城晃さんのこと

 昨年二〇〇八年四月十六日(水)に伊江島をたずねた。今回の映画で初めて伊江島での強制集団死を証言してくれることになった大城安信さんのインタビューのためであった。伊江村遺族会の会長だった新城孝雄さんからの紹介と、いくつかの偶然が重なって可能になったインタビューであった。
 一九九九年三月に伊江村教育委員会が編集発行した『伊江島の戦中・戦後体験記録』は読み応えがあった。その本の第三章、「伊江島での戦争体験」の5番目に「住民」という項がある。一般住民の側からの体験が四十名の人によって記されている。その中で読後気になったものがあった。「火炎放射器の中を逃れて」と題された一文であった。副題は、伊江国民学校山々分教場生の戦争回想記、とある。一九九五年八月に、いままで分散して書いていたものをベースにして補筆・整理して脱稿した文、と記してあった。伊江村の『体験記録』を読み終えてもなお私はこの文が気になっていた。
 それは脱稿の二年後の一九九七年十二月に書かれた「追記」にまつわるものだった。なぜ脱稿後ニ年経て追記を書かざるを得なかったのか。おそらくこの二年間、著者は自分の体験記を繰り返し読んでいたにちがいない。読み終えてなお残るもの、それは次のような文となった。(少し長いけれど全文を引用したい。)
 “書いてはみたものの、こころが虚しいというか、うしろめたいというか、やりきれないというか、憂うつな気持ちになります。戦争のこともさることながら、現在のこともこの身をさいなむからです。それは基地「容認」の村政を「容認」し、その一端を支えてきた者への当然の「報酬」だろうと観念しています。定期的に診療所に通う身になって、待合室で考えることは、この建物も、基地として土地は絶対に貸さないと、契約を拒否されている方々の意志を無視して、基地を提供している見返りとして、できているのだな、と思うと、なんと申し上げたらいいのか、「容認」してきた一人として言葉を失ってしまう。契約を拒否されている地主の方々の夢を、一日も早く実現できるようにするのが、遺族としての努力であり、ほんとうの慰霊になるのではないだろうかと、胸の内で手を合わす今日であります。”
 自らの戦争体験を「過去」に閉じ込めないで、現在につないでいくときの心の模様がそのまま語られている。少なくともこの『体験記』にとって付加しなくてはならない追記ではないと思うのだが、著者は、この『体験記』を五十年、百年のスパーンで見ていることに気づかされた。現在の自分の思いも、五十年、百年後には「沖縄戦」と同じように過去という幅で読まれることを意識していたにちがいない。私はそう思った。「容認」と「報酬」の2つのことばが、伊江島の現在と過去を結ぶ筆者の肉声となって、私のなかにどすんと落ちてきた。
 
 大城安信さんのインタビューをし終えて一週間ほどして私はどうにも気になって、この文の著者に電話をした。若い女性の声のあと、たどたどしい話しぶりでこの著者が電話に出た。ぜひお会いしたい、と言ったら、最後の方で、港の村立の建物で待っています、とのことだった。
 五月十日(土)、本部新港から始発のフェリーにのって伊江島にむかった。下船し指定された建物を見上げると、窓の外に初老の人がこっちを向いて立っていた。直感した。

 「火炎放射器の中を逃れて」の著者の新城晃さんと初めてお会いしたのは、伊江島の港のすぐ前の村立の案内所のようなところだった。小ぎれいな一室で脳梗塞の後遺症の残る新城晃さんは、カメラを回さないことを前提に何かに警戒するような話しぶりで対応した。私は、『体験記』の追記のことを単刀直入に切り込んだ。新城さんは、何かに照れるようにその話には直接のってこなかった。私はホッとした。聞きたいことがあるのだが、あの文章以上のことを聞けるはずもなかった。しかし、私は何かを感じとりたかった。いくつかの話が行きつ戻りつしながら、感じとりたかったものが得られたと思えたのはなぜだったか。たどたどしい口ぶりの奥に、あの「追記」の芯が感じとられたと思えた。手さげの袋の中から丹念につづられたいくつかの資料を見せてもらいながら、私はそのひとつひとつを「追記」の中身として受けとめていた。阿波根昌鴻さんの魂の拠点である「わびあいの里」に行って謝花悦子さんと話をした。その中で新城晃さんの人柄と仕事ぶりを私は何回も確認することになった。それは私にとって忘れられぬ喜びとなった。人に出会えたと思える喜びだった。「伊江島」ということばに、人間の姿を思い重ねることのできる喜びと言ってもよい。

 新城晃さんは、この『体験記』をまとめあげた時の伊江村教育長であり、編集・校正に全力を傾けた。異常とも思えるほどの校正魔で、この『体験記』が他の字誌と比べて誤字・脱字が少ないのは、新城さんのなせるわざならである。実は、私が新城晃さんの体験文にふれたときには、新城さんがそんな要職についていた方だとは全く知らなかった。巻頭の祝文を読みすごすくせのある私にとって、新城晃さんが前伊江村教育長の肩書で、巻頭の文を書いていることは知らなかったのである。この行き違いは私にとっては嬉しい結果でもあった。肩書の前に「人」に会えた嬉しさと言っていい。備忘録に記す故所である。
 新城晃さんは、その後何回か、名護の病院からの帰りに私の職場に足を運んでくれた。それがまた嬉しいことだった。一度もカメラをまわすこともなく接しつづけてくれた新城晃さんに学んだものは大きい。今も私のなかに確実に息づき、立ちどまって考える足場となってくれた。
 
 新城晃さんは、伊江村民芸能保存会の副会長をしておられるが、新城晃さんの文章には必ず歌が入っている。新城晃さん理解にとって、歌は不可欠であるが、私にはその力がないのがなんとも残念である。

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