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2009年6月

2009年6月17日 (水)

最後に録すること

 私たちは映画づくりの専門集団ではない。予備校業務が中心の小さな営利業である。その中にこれまた小さな「じんぶん企画」部がある。専従の職員は誰もいない。だから今回のような映画づくりは、外見的には「じんぶん企画制作」となるが、実働部隊は私も含めてすべて予備校業務にかかわっている者によっている。家内工業もいいとこで、それ故に一人ひとりにかかってくる仕事量は大変なものだった。
 「映画づくりは赤字があたり前」ということらしいが、私たちのような小さな営利業にとってはそんな言説は認められない。制作と販売はひとつのパックになったものであって、それ以外は考えられない。外からの資金はゼロなのだからあたり前である。ジャーナリズムへの売り込み(記事にしてもらうため)、上映会活動の依頼、諸団体への情宣、図書館浸透のための著作権チェックと登録申し込み、ホームページでの案内、友人・知人への案内送付などなど、制作と同じくらいのエネルギーを投入しなければならない。しかし、こんな苦労は当世あたり前で、まわりにはもっとしんどい状況に追い込まれている人が多くいる。しんどい中だからこそ見えてくるものがあるし、ある意味でこの『未決・沖縄戦』はそうした苦しい立場の人間の側から沖縄戦を見直してみたものであるともいえる。「沖縄戦」のなかでも比較的陽のあたらない「山原での沖縄戦」の実態に迫っていったのもそのことと無縁ではない。著作で言えば、「注」として後ろに付いているそういう事実にこだわっていったのも、私たちの現状の苦しさとからんでいる。小泉などというバカな首相を頭にかついだ日本の苦しさを一身にしょい込んだのは、山原での沖縄戦でいえば、「逃げまどう避難民」であった。それは今も昔も変わらない。
 結論的に言えば、『未決・沖縄戦』は私たちの会社に利益をもたらした。大きくはないがしかし小さなものでもなかった。私にとっては、このことだけが一緒に働いてくれた職員へのただひとつのお礼であった。と同時に、映画づくり、上映会活動で知りえた人たちからの励ましと協力が私たちを本当に支えてくれた。北は北海道から南は九州まで、小さな上映会によってこの映画のDVDを購入してくれる人々が増え、少しずつ少しずつこの映画が浸透していったことが、どれほど私たちを支えたことか。小さな会社に今までになかった窓があいた。そのことがまた別の可能性を私たちに与えた。お金以上にそのことの持つ意味は大きい。
 普天間米軍基地をごっそりと名護市の辺野古に移し、内容的にもリニューアル化し、沖縄における米軍基地を再構築・固定化することに私はどうにもがまんならない。ふざけるナ!と言いたい。いったい、これを誰にむかって言えばいいのか、その答えの一つを『未決・沖縄戦』の中に込めたつもりである。歴史とはそういうものだ。そのことを最後に記しておきたい。

 この『備忘録』を終えるにあたって、『未決・沖縄戦』の制作のハード的記録を残しておきたい。苦しい中で映画をつくろうとする人たちに何らかの参考になると思う。

〈機材類〉
カメラ:panasonic NV-MX2500(ごく普通のデジカメ。当時で3万円ほど)
三脚:Veldan KVA-557(3万円くらい)
編集ソフト:EDIUS・pro4(約7万円)
使用したデジタルテープ:Victor・DVM60 と 120(15本)
マイク:CANNON K23(中古)
音楽関係:作詞作曲は職員の玉代勢牧子/収録はスタジオ(朝日企画)(1万円)

〈制作ポイント〉
(1)徹底した資料あさりとメモ(参考文献リストは、この映画の最後に明記)
(2)あくなき年表づくり(B4で長さ3メートルほど)
(3)シナリオ骨格の死守(部分的修正は柔軟に)
(4)ていねいな取材・インタビューとメモ
(5)映画づくりへの愛情(下手でもいいから、自分の躰にたまってくる愛情を信じて育てていく)
(6)シナリオ作成者と編集者の徹底したディスカッション。時にはけんかもよし。(視点の違いの交流は大切だ)
〈自戒的付記〉
 初めはだれでも「初心者」。多少の批判にめげるぐらいならやめた方がいい。できた作品を見て、今一歩だなと思ったら次作で乗り越えていけばいい。お客さんがつかない映画ならば、内容がダメなのだ、ときちんと腹をくくること。「歴史の評価にゆだねる」なんて言ってはいけない。

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次作のこと

いま私は、二つの作品をほぼ同時進行ですすめている。ひとつは、『悼画・金城祐治さん』、もうひとつは、山原DVD童話集『東の森とオッパイ山』である。まったくちがったジャンルのこの二本を同時進行させているのだから、私の精神は分裂しているに違いない。作品の内容とできが分裂していなければいい、と妙な腹のくくり方をして取り組んでいる。なんだかこの2つはつながっていると思えてきて、手放せないのだ。
 
 『悼画・金城祐治さん』のこと。
 二〇〇七年五月十九日、辺野古の「命を守る会」の代表をしていた金城祐治さんが亡くなった。国家の専権事項とされている国家防衛に関する日・米軍事同盟政策の一環として決定した「普天間基地の辺野古沖移設」に対してノーと主張し続けた人であった。享年七十二才。ごく普通のまさに市井の人として、定年後の十二年間を反対運動にささげた。「戦死やあはれ」であった。
 祐治さんは、大阪生まれ大阪育ちの沖縄人(ウチナンチュー)二世である。人生の半分の三十六年間を大阪で暮し、戦争を体験し、幼児・少年期の沖縄人差別を体験してきている。大阪の大正区で運送業を始めたお父さんの金城長栄さんは、一九二〇年代半ばに辺野古の生家(屋号:川端屋)から本土に出稼ぎに出た。東京、川崎、名古屋とわたり大阪に定住した。川端屋の長男であった長栄さんが移住したのだから辺野古の生家は相当に厳しいものだったのだろう。次男(長秀さん)と一人娘の妹さん(スエさん)もそれぞれ南洋諸島ポナペ、和歌山に出稼ぎに行っていることからしても、生活の厳しさは想像がつく。
 大阪生野区の田島中学を卒業した祐治さんは、一学期だけ高校にいったが学費が都合がつかず、お父さんとお兄さんでやっていた金長運輸で働くことになった。お父さんの長英さんの伴侶は石川県小松出身の人であった。祐治さん自身も京都出身の人と結婚し4人の子どもを大阪で育てている。してみると、金城祐治さんの生きてきた環境はほとんど「本土」と言っていい。祐治さんが、「ワシのふる里は大阪や」と言っていたのも当然であった。死ぬまで大阪訛りは消えなかったし、沖縄の民謡を大和口(ヤマトグチ)で歌って爆笑をかったこともあった。
 大阪では沖縄人(ウチナンチュー)として見られ、沖縄に移住してからは大阪人(ヤマトンチュー)として見られているという屈折の中に祐治さんの生はあった。沖縄の本土復帰の前年の一九七一年に祐治さん一家は辺野古に移住してきた。お父さんが亡くなり川端屋の後継ぎのおはちが祐治さんにまわってきたのだ。
 辺野古に移住してきてニ年ほどタクシーの運転手などの仕事をした後、一九七三年に沖縄バスに運転手として入社した。そこで二十四年間勤めた。入社後まもなく沖縄バス労組に入り久志支部長まで務めた。沖縄バス定年後のことを考えて、老後の楽しみと仕事としてマンゴーづくりにとりかかったのは一九九〇年頃であった。一九九三年、多発性脳梗塞で倒れた。復職し一九九五年に沖縄バスを定年退職した。その年、米海兵隊員3人による女子小学生レイプ事件がおき、さらに米軍普天間基地の辺野古移設問題がおきてきた。名護市民の移設反対運動のスタートである。一九九七年一月二十七日、辺野古に「命を守る会」ができ祐治さんは相談役として加わることになった。これが十二年間にわたる「命を守る会」での祐治さんの動きの出発点であった。

 『悼画・金城祐治さん』を制作するにあたって、私はいつものように年表づくりから始めた。生前に撮ってあった祐治さんへのインタビューやその後撮った親族の人、友人・知人からの聞き取りをもとにして少しずつ年表ができてきた。お父さん関係は、『辺野古誌』の助けを借りたりした。年表づくりは私にとって映画づくりの最大の礎である。年表に少しずつ表れてくる時代と人間の絵模様のなかに、自分にとってどうしても気になる所が出てくる。それが映画制作の唯一のエネルギーとなっていく。このエネルギーに分け入りその源をたずね歩くことが私にとっての「制作」であり、シナリオづくりの源泉である。これしかない。
 戦争-差別体験-移住-本土復帰-運転手兼労働組合員-命を守る会、という大見出しの年表の中に、一つのつきぬける風として、そして一つの閃光として感じられるもの、それを追い求めていこうと思っている。それはスレスレの所で、私自身の見えていない影を追うことと重なっているのかもしれない。

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愛着のあるムダ

愛着のあるムダ

ランディング期も入れて二年かけてつくりあげたこの『未決・沖縄戦』には厖大なムダが横たわっている。このムダの中には二種類ある。一つは、技術的に未熟なためにおこるムダである。これはいたしかたない。少しずつ努力して削りとるしかないし、前に進むための必要経費的ムダともいえる。もう一つのムダ、これはやっかいだ。だが私には手放せない。
 ひとつの映画をつくるとき、制作の本筋というか主流になる部分の他にいくつかのわき道があることを知った。ものの本では読んではいたが、これほどわき道が多いとは思わなかった。資料を読みこんでいくとき、シナリオづくりのためにあまかいくまかいとまわり道をする。そのうちそのまわり道、わき道がおもしろくてどんどん奥に入り込んで、戻ってこれない時があった。「スージグァーのおもしろさ」というやつで、編集者の方から「もう間に合いませんよ!」と言われても、「大事なところを練り直しているんだから。」とウソを言ってそのラビリンスで寝そべっている時が何度かあった。私の場合、シナリオづくりとカメラでの撮影という二役をかねているので、迷路はどこそこにあり制作の本筋なんかどこ吹く風となることがたびたびであった。

 国立ハンセン病療養所愛楽園にまつわるものは、厖大なムダの最たるものになった。『沖縄ハンセン病証言集』(沖縄愛楽園編六百三ページ/資料編八百四十八ページ)の二冊にどれほどの時間を割いたことか。特にその「資料編」は、私にとってひどく魅惑的な迷路・ラビリンスがちりばめられていて、はまり込んだ。時にその本をだかえて、愛楽園まで車をとばし、確認のためのほっつき歩きを重ねた。濠の中にもぐりこんで濠の大きさを測定し資料とつき合わせたり、青木恵哉の歩いたであろう道すじをカメラをかついで確認したり、海岸にねころんで海を見たりと、あらん限りの彷徨をした。帰りの車で、編集者の長田恭太郎に言う口実を作り上げ、同じ頭で、次はここを見てまわるとメモを取る。この「資料編」は活字も小さく大変な重さで、一度愛楽園の貯水タンクのある山の上から落としてしまったことがある。その時、「ああ、そのまま海にでも沈んでくれればたすかるナー」と本気で思ったことがあった。
あんまりうろつき回るから、療養所に残っている人と親しくなってしまい、少しだけ酒をごちそうになったことがある。さあ、帰ったらバレると大変ダと思い、豆乳をがぶ飲みした。酒の匂いが消えないので、カレーを無理して食べてなんとかしのいだことがあった。この「資料編」には大量の表・グラフがあり、これがまた危ない仕掛けであった。「資料編」だけに「公的報告書」や「議事録」が多く、これらとグラフや年表とつき合わせをしている時に、頭をゴツンと叩いてようやく正気にもどった。 
もう一つは、伊江島の撮影である。伊江島本島内での撮影はもちろん、沖縄本島のあらゆる所から伊江島を撮りまくった。どうにもこうにも撮らずにいられなかった。朝・昼・晩、とにかく伊江島に向かい続け、撮り終えると、「陣中日誌」(国頭支隊のもの)を読む。読む。読む。そのホットな頭で伊江島を撮影する。やめられない。ついに、同行してくれたことのあった職員(この映画の作詞・作曲をしてくれた玉代勢牧子)から、「伊江島の写真集でも出すんですか?」とサジを投げられた。その後は、こっそりいろいろ口実をつくって一人でお忍びの撮影。そんな時、沖縄から南洋諸島に渡った人々の「戦争」のことが『具志川市史』に出ていて、そこにのめり込んだ。お父さんお母さんを亡くして、姉が妹たちと逃げまわる証言だった。すると、私の頭はサイパンに飛んでいって逃げまわる兄弟たちと同行していってしまう。具志川市の市史編纂室の女性の方に取材の申し入れをした。沖縄とサイパンが一続きの島になって私の頭の中でくっきりとその細部を照らし出す。特にその女兄弟が分教場(?)から帰る道すがらが伊江島の北のゴツゴツした原っぱや崖に重なってもうあともどりがきかなくなってしまった。
 私にとって「沖縄戦」はますます「未決」となって、うす暗いスージグァーの中でうずくまる私自身を確認することになっていった。

 そんなこんなのわき道での迷走が止んだのは、本島南端の摩布仁での撮影の時だった。平和の礎(いしじ)を中心にした撮影の時である。夕方近くに行ったせいかお客さんはほとんどいなかった。私の伯父の浅川生駒とつれあいの伯父の佐々木良彦の碑を撮影したとき、私のラビリンスはほどよくほぐれて、その時あざやかに天空を照らしていた夕焼けのなかにおさまってくれた。「ああ、終わったのだ」と思ったのはなぜだったか。映画制作はこれからだというのに、私の中にはある終焉がおとずれていた。それが全身をおおう淋しさとなったのは当然のことだった。わき道、まわり道、スージグァーの好きな私にとっては何ものにもかえられない喪失感となっていった。
 
 こんなちっぽけな映画なのだが、私はあらん限りの厖大なムダをていねいにこしらえあげた。作品からそぎ落ちたこれらの「ムダ」は今も私の中に残っていて懐かしい。『未決・沖縄戦』という作品の他に私だけのまた別の『未決・沖縄戦』ができあがっていった。

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