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2009年10月14日 (水)

悼画・『金城祐治さん』制作記録

辺野古、「命を守る会」の代表であった金城祐治さんが亡くなって二年半が経とうとしている。誰にたのまれたのでもなく、祐治さんの追悼の映画をつくろうと決めていた。

 十二年におよぶ辺野古の闘いは、二〇〇四年四月十九日から始まったテント村での座りこみだけでも二〇〇〇日を越した。祐治さん亡きあとも、安次富浩さんと当山栄さんらを中心にとぎれることなく続いている。政権交代によって、米軍普天間基地の辺野古沖移設はいくぶん変わる可能性が見えてきたが、とても安心できる状態ではない。沖縄県内のたらいまわし・嘉手納統合案がささやかれるなか、十二年にわたる「辺野古の闘い」の蓄積は今後の反基地運動にも大きなヒントを与え続けるにちがいない。それにしても、十二年は長い。二〇〇〇日の座りこみとそこでの調査・学習・論議が、新政権にとってもどれほど「見直さざるをえない拠点」となっているか想像に難くない。今日も座りこみをしている人たちに、「本当にご苦労さま」と言いたい。

              映画づくりの動機

 私は、辺野古の座りこみに全部で二十回ほどしか行っていない。ほぼ毎日通勤の車で辺野古の海をみながら、今日も頑張っているんだな、と思っていた。集会などはできるだけ出ているが、自分に何かできることはないかと思い続けていた。つぶれそうな会社を経営する身でもなにかできないかと。仕事がら朝から夜十時までの授業で思うようにならず、焦る気持ちに押しつぶされそうになったのもしばしばだった。

 二〇〇二年に祐治さんにインタビューしたフィルムがとってあった。それを時々見ていた。二〇〇七年五月十九日に祐治さんが亡くなり、何か大切な宿題が躰にのこった。追悼の映画をと思っても私にはその中身がなかった。思いきって、奥さんの初子さんに会ってみた。何回目かのとき、祐治さんの幼年期の写真を数点見せてもらった。次に行くと、また別の写真が用意されていて、そんな時、初子さんの生い立ちと祐治さんの再婚のときの話もきいた。その帰りの車中で、悼画をつくる決心がついた。翌週祐治さんの生誕の地大阪に飛んだ。祐治さんのお兄さんの連れあいの金城映子(かねしろえいこ)さんに話をうかがった。大阪大正区時代の祐治さんの様子がわかってきた。祐治さんのお父さん金城長栄(かねしろちょうえい)さんと奥さんのはるさん(石川県小松出身)の写真を見た。大阪に来る前につくっていた祐治さんの年譜とつきあわせ、ひとつひとつ確認していく作業が続いた。半月後、再び大正区に入り、何人かの関係者の話をきいた。特に、金城さん一家が住んでいた「クブングワー」(窪地・低湿地帯)が知りたくてカメラをかついでうろつきまわった。夜、映子さんにクブングワーにあった金長運送のあった跡につれていってもらった。大正内港のすぐそばで、今ではテニスコートになっているそこにたたずんだ。その時、一九九八年に祐治さんといっしょに大阪の「住民投票」の全国集会に行ったときのことが鮮明に思いだされた。集会の帰り関西空港で搭乗までの間、外でふたりでタバコをすっていた。祐治さんは大阪方面の夜景が見える場所に行きそこにぺたんと座ってじいっと遠くの明かりを見ていた。その背中は、私が近づくこともできない何かがピンとみなぎっていた。実は、この悼画をつくりながら私は、その時の祐治さんの後ろ姿をそれこそ何十回も思いおこしていた。生後三十六年間をくらした大阪の地での祐治さんを知ることなしにこの映画はつくれないことはわかっていたが、その三十六年間につまっている祐治さんを、クブングワーに立ち、そして関空での後ろ姿と重ねあわせてようやく私にも少しずつ見えてきた。それは同時に、年こそちがえ、戦前、戦中、戦後をかけぬけるようにして生きてきた私の亡き父と母をたどることでもあった。

              嬉しかったこと

 この悼画が完成し、上映会をする前に祐治さんの奥さんの初子さんにチェックを入れていただいた。プライバシーに立ち入ることにもなった映画の性格上当然のチェックであった。「了承」という返事をいただき、上映会の二日前の十月一日に祐治さんの霊前にこの悼画をささげに行った。手を合わせていた私の横にちょこんと座っていた初子さんが突然床に顔をくっつけるようにして哭きくずれた。「私の知らなかったお父さんに会えた!」としぼり出すように言ってくれた。そして意外なことを口にした。「この映画を見て、私もお父さんもまちがったことはしていなかったと思った。だから、映画を見てすぐに辺野古の老人会に入った。これからはこの辺野古で堂々と生きていく。今日はヘルパーさんの助手をしてきた。」と。この映画をつくってよかった、としみじみ思った。祐治さんが残した宿題のまだ半分も私は終っていないのだがひとまず出発の糸口は残せた。これからは、座りこみにはあまり行けないが、自分にできることをとにかくやり続けよう。県内のいかなる所にたらいまわしされることにもノーと言い続けよう、と思う。最後まで市井の人の態度を貫きとおして「差別はアカン」と闘いつづけた祐治さんの七十二年の生涯に続きたい。

 この映画の販売一本につき二百円は、辺野古テント村の活動資金として使ってもらうことになりました。

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