« 最後に録すること | トップページ | 悼画・『金城祐治さん』を制作してみて »

2009年10月14日 (水)

悼画・『金城祐治さん』が出来るまで

 享年七十二才。辺野古・「命を守る会」の代表であった故金城祐治さんの追悼の映画を製作した。二年半ほど前に亡くなってから、ずいぶん経ってしまった。大阪での取材をしても足腰が定まらず、資料の山のなかでのたうちまわった。二回目の大阪取材で、祐治さんのお兄さん・金城祐治さんの奥さんとじっくり話してようやくシナリオの骨格ができあがった。

 金城祐治さんは、一九三五年(昭和十年)二月十九日に大阪市生野区で生まれ育った。国民学校一期生として生野国民学校に入学し、戦争を体験し大阪で三十六年間をすごした。お父さん・金城長栄さんが大正十二年頃大阪に出稼ぎに出て、石川県小松市出身の吉田はるさんと結婚し六人の子供をもうけ、祐治さんはその次男坊であった。中学校を出て、お父さんとお兄さんが立ちあげた金長運送に加わり辛酸をなめつくした。その辛酸には前ぶれがあった。小学時代から受けた「ウチナンチュー差別」であった。新聞配達時代に受け続けたこの「差別」と、朝鮮の人たちから受けた「優しさ」をずっと手放さずに生きてきた。生野区から大正区に引越して金長運送を本格的に始めたときも、沖縄人集落にいるが故の「差別」をまともにあびてきた。大阪にいる沖縄の人が「クブングワー」と呼んでいた低湿地帯に住むが故の「差別」であった。敗けてたまるか、という気持ちだけが支えで生きぬいた。

 お父さんの病死(享年五十四才)による後継ぎ問題がおきてきた。紆余曲折の末に祐治さん一家がお父さんの生地辺野古に移り住むことになった。沖縄の本土復帰の一年前であった。沖縄バスに運転手として入り、沖縄バス労働組合に入り、現業労働組合員として二十年間勤めあげた。定年退職をむかえマンゴー農民として余生をおくることになっていた矢先に、普天間米軍基地の辺野古沖移設(新基地建設)問題がおきた。この新基地建設を、「沖縄に対する差別」と受けとめた祐治さんは立ちあがってしまった。六十三才であった。持病の身でありながら、祐治さんの体の中にずっとあった「差別はアカン」、「戦争はダメだ」という二つが祐治さんをつき動かした。辺野古の人たちからは、「ヤマトンチュー」として見られていた祐治さんは、ただ一点〈差別〉に対するたったひとりの反乱を決行した。多くの仲間がそれを支えた。十年間にわたる闘いは続き、テント村での座り込みは、今月九日で二〇〇〇日をむかえた。市井の人・金城祐治さんの飾らぬ人柄とえらぶらない態度は、今も辺野古を訪れる人々の心の支えとなっている。

 多くを語ることのなかった祐治さん。それだけに映画づくりは大変であった。しかし、大阪時代の祐治さんを追いかけていくなかで、私は実に多くのものを勉強させてもらった。自分の信念を、時代の変化の側に横すべりをおこさせることなく、「差別はアカン」というシンプルな原理を貫きとおすことの裏にあったものに、あらためて向きあわせてもらった。

 辺野古の闘いの根もとには、こうしたウチナンチュー2世の金城祐治さんがいたことをきちんと記録しておきたい。

|

« 最後に録すること | トップページ | 悼画・『金城祐治さん』を制作してみて »

映画・テレビ」カテゴリの記事

コメント

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1043280/31780595

この記事へのトラックバック一覧です: 悼画・『金城祐治さん』が出来るまで:

« 最後に録すること | トップページ | 悼画・『金城祐治さん』を制作してみて »