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2009年10月14日 (水)

悼画・『金城祐治さん』を制作してみて

 沖縄・辺野古の「命を守る会」の代表であった金城祐治さんが亡くなって二年半がたとうとしている。今月の十月一日、祐治さんの霊前に、この「悼画」をささげてきた。肩の荷がおりたのだが、映画からもれた多くの風景が私のなかに残された。

一. 初子さんと映子さん

 祐治さんの霊前にこの映画のD・V・Dをささげ、手をあわせていたとき、隣で座っていた奥さんの初子さんが突然顔を床につけるようにして哭きくずれた。嗚咽はしばらく続き、小さく「お父さんが喜んでいる」と何回もつぶやいた。完成前にチェックをしていただこうと初子さんにはそれ以前にD・V・Dを渡し、見ていただいていた。そのせいか、霊前に手をあわせていた私にむかって「よかったです。私の知らないお父さんに初めて会えた。大阪時代のことをあまり話してくれなかったので、今回初めて会った気がした。」と言って泣きながら喜んでくれた。

 初子さんは、私のたび重なる取材にいつも快く応じてくれた。この映画に出てくる写真の半分近くは初子さんの提供によるものであった。死別した祐治さんの最初の奥さん・昭子さん(京都出身)の写真も探しだして渡してくれた。初子さんのお父さん・栄門秀一さんは、二度目の召集で戦地グアムに行きそこで戦死した。初子さんはお父さんの顔を知らない。小さい頃、お母さんにお父さんのことを訊きたくてもきけなかったという。女手ひとつで子供たちを育てる苦労は、過去をひきずることを許さなかったのだろう。初子さんのなかで、「戦争」は「不在の父」と重なって残り続け、戦争を厭う気持ちが消えることはなかった。「命を守る会」の十年におよぶ祐治さんの新基地建設反対の行動の裏には、「厭戦」の感情を持ち続けた奥さん初子さんがいた。

 大阪での取材のとき、祐治さんのお兄さん(金城治さん)の奥さん映子さんに何回も助けてもらった。お父さん金城長栄さんと長男・治さんと祐治さんの三人で起こした「金長運送」は、今では株式会社新陸運輸と称号を変え、大阪大正区で営業を続けている。映子さんが社長をつとめている。石川県出身の映子さんは、歯ぎれのいい人で、「祐ちゃんのためなら」と言って全面的に取材に協力してくれた。金長運送の初期に嫁いできた映子さんは、言うに言われぬ苦労をしてきた。「クブングワー」と呼ばれていた窪地・低湿地帯のなかにバラック建て家屋兼仕事場であった金長運送。映子さんは、「なんでこんな所に嫁いできたのか。」と何回も思ったと言う。雨になると長ぐつをはかないとダメな地で、八人にのぼる大世帯の台所仕事・子育てそして運送業の手伝いとフル活動の日々であった。

 映子さんが語ってくれたことで、映画にも取り入れることもできず、またここに記すこともできないものもある。映子さんから上映する前に見せてほしいと言われたのもそれと関係がある。D・V・Dを送って私はドキドキしながら映子さんの返事を待った。映画が着いた翌日に電話があった。戦時中の祐治さんそして沖縄に渡ってからの祐治さんについて、「コシイシさん、私は本当に知らなかった。祐ちゃんがあんなだったこと、本当に知らなかった・・・」と言って電話口で声をつまらせた。そして、「ありがとう。お父さん(治さん)の霊前にそなえました。」と言ってくれた。映子さんにとって、この映画は、祐治さんを偲ぶだけでなく、無我夢中でかけぬけた昭和の中の、誰にも言えぬ胸の内を独りでなぞることにもなったのだろうか。お父さんの長栄さんが亡くなり、辺野古の生家・川端家の後継ぎ問題がおきたとき、映子さんが、「沖縄には行かない。金長運輸を守る。」と言いきった裏にも映子さんのこの「胸の内」があった。そしてその決断が、祐治さん一家の辺野古への移住をうながしたのだった。

二. 辺野古・「命を守る会」の根もとには

 戦前・戦中・戦後を三十六年間大阪で生きてきた祐治さんが身につけたもの。それは、「まじめに働く」、「戦争はダメだ」そして「差別はアカン」であった。それらは戦争をくぐり、厳しい差別を受けながら焼け跡で生きてきた人間が体にしみ込ませたものだった。その態度・姿勢は沖縄に移り住んでも変わることはなかったし、変えられるものでもなかった。それはそのまま辺野古の新基地建設ノーの運動にも貫かれた。辺野古の反対運動支援にかけつけた本土の若者たちが、辺野古に来ると今も祐治さんの霊前に手を合わせにくるのは、祐治さんの変わらぬ態度・姿勢がすっと心に入り、忘れがたく心の底に残り続けているからだろう。そしてその態度・姿勢は、今の辺野古テント村にも息づいている。二〇〇〇日におよぶ座り込みは、そんな生き方のもとに積み重ねられていった。テント村は、さまざまな人たちがそれぞれの思いを抱いて立ちつくした互いの学びの場でもあったのだ。

 全六章から成る悼画『金城祐治さん』が、一人の市井の人の七十二年間の軌跡をふちどり、今後も辺野古テント村を訪れる人々に何かを伝えるドキュメンタリー映画であってくれたら嬉しい。

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