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2010年10月 9日 (土)

屋嘉比収さん を思う

1.鶴見俊輔さんと屋嘉比さん

 屋嘉比収さんが亡くなった。行年53才。なんとも若すぎた。

 やがて20年になるだろうか。鶴見俊輔さんが、初めて沖縄に入って名護で講演することになった。テーマは、沖縄の「じんぶん」についてであった。鶴見さんが沖縄に来るということで、那覇の人たちもわざわざ名護にみえた。第一部の講演のあとも多くの人が残り、予定していた会場に入りきらなくて、となりの研修室をぶち抜いてもらって質疑応答をした。アメリカ領事館の方もみえ、その一人の女性が英語で質問した。その質問は、江戸幕府時代の鎖国が現代の日本人にどのような影響を与えていると思うか、という主旨であった。鶴見さんは、英語で答えたあと、日本語になおして語った。その時の輝いていた鶴見さんの顔が忘れられない。その質疑応答のなかで、屋嘉比収さんは、沖縄の「じんぶん」にからめて柳宗悦を持ち出して質問した。ねばっこい質問だったことを今も私は覚えている。

 翌日、鶴見さんは多野岳の頂上にあるホテルからまっすぐに本土に帰ることになっていた。私なりに、山原のどこかをご案内しようと思っていたが、早い便で帰ることを決めていた。その夜、屋嘉比さんから電話があった。鶴見さんを空港まで送らせてほしいというのだ。私も、久しぶりに鶴見さんと車中で話しをしようと思っていただけに、とまどった。電話の声ではまだ若いその人を、私はまったく知らなくて不安はあったが、電話の声のまっすぐさが伝わってきて、承諾した。少し早目にホテルに着きロビーで待っていた。鶴見さんが出発の用意をして下りてきた。少しだけ話しをしていると、屋嘉比さんがやってきた。昨日、柳宗悦にからめて質問した人だということがわかった。鶴見さんに事のてんまつを話したら、快くOKしてくれた。屋嘉比さんは、大きな体と笑顔で鶴見さんを自分の車にのせ、またたく間に車は走り去っていった。車の姿が見えなくなるまで私は、ずっとその場に立っていた。ホテル代以外何も払わなかったことが心に残っていた。那覇の空港から名護までもバスがいいと言ってきかなかった。もちろん飛行機代もすべて鶴見さん持ちであった。私に〝なるべく小さな部屋の集会がいい。小さければ小さいほどいい。″と来沖前に鶴見さんは言っていた。それがかなわなくなったのは、「鶴見俊輔」という名前のせいだった。

 屋嘉比さんと鶴見さんが車中でどんな話をしたか、私は知らない。それにしても、鶴見さんの見送りを私はなぜ見ず知らずの屋嘉比さんに譲ったのだろう。電話の声のまっすぐさの奥に、私は何を感じとったのか。屋嘉比さんとの最初の出会いをたどる回路として、この疑問をしばらく手ばなしたくない。

 その後、鶴見さんに、あの時のことをたずねると、屋嘉比さんのことをしっかり記憶していた。

2.屋嘉比さんの笑顔

 屋嘉比さんを悪く言う人を、私は知らない。かもし出す雰囲気を、芯の和やかさとともに自然に立ちのぼらせる人だった。人の話をさえぎるようなことはしない。批判したい話も最後まで聞き、笑顔でゆったりと切り返していた。何よりも性急さというものからほど遠い人だった。芯の強さを、口調の強さとすることなく、どこかに笑顔をたずさえて一歩もひかないところを持った人だった。その「一歩」は、必ずしも思想的な到達点というものではなく、何かしら受け継いだ体質とでも言うようなものであった。

 嘉手納町のロータリーがまだ昔のままで、そのロータリーの中にあった落ちついた喫茶店で何回か話をした。私とはひとまわりも年下の沖縄人(ウチナンチュー)に、私は頼りきった口調でいろんな話をしたのを覚えている。屋嘉比さんと話しをしているとき、安心してことばをゆっくりと探している私がいた。それが心地よかった。たとえ、厳しい指摘があったにせよ、そこにはまっすぐな、広場のようなものを感じさせるものがあった。

 『日本社会運動史人物大事典』、『沖縄を知る事典』、『沖縄を深く知る事典』の編集委員会のメンバーとして、屋嘉比さんの力は大きかった。この3つの作業で私が学んだものは大きかった。沖縄の歴史について、ズブの素人の私が編集委員会と出版社の間をとりしきることはとてもできる仕事ではなかった。伊佐眞一さんと屋嘉比さんにひきつられて、私はどうにかこうにか後をついていった。あがってくる原稿のすべてを読みながら、沖縄の歴史を学んだ日のことが忘れられない。今まで知っていた人物とおおよそちがう沖縄の歴史上の人々に、原稿をとおして出会いながら、私なりの「沖縄」を刻みこんでいった。特に移民(県外、国外)の項目に眼をひらかれる思いで原稿を読みあさった。「本土」と「沖縄」の差異を、人物を通して知ることの喜びと言っていい。私の思考枠は、とてつもなく拡散し、体内にあった四季の文化のくずれゆく様に、なんともいえない解放感を感じていた。

 那覇での編集委員会の帰り、屋嘉比さんといっしょに帰路につくことが何回かあった。車中での屋嘉比さんの話を私はじっくり聞いていた。何かを語りたいのだが、聞くことの楽しさに終始してしまった。嘉手納で屋嘉比さんをおろし、国道58号線を北上しながら、夜の海に何回も屋嘉比さんの笑顔とことばを思いうかべていた。私のなかに、屋嘉比さんの笑顔とともに「沖縄」がゆるやかに入ってきた。人をだますことのないその笑顔に、悪人の私はどれだけ救われたかわからない。と同時に、一歩もひかない強じんさがその笑顔にあることが、また心地よかった。その、笑顔と強じんさのなかから、屋嘉比さんの作品が立ちあらわれることを私は予感していた。それだけに、屋嘉比さんのつむぎ出す作品の<方法論>が、いつも気にかかっていた。

3.まっすぐに愛された人

 屋嘉比さんは、沖縄でただひとり、商人としての私に向きあってくれた人だった。それが私には嬉しかった。株式会社の経営をしている私を、まっ正面からとらえてくれていた。それは、こわいことでもあった。私なりの「商人の志」を旧い体質だと見ぬきながら、屋嘉比さんはそこにひとつの窓をこしらえてくれていた。

 亡くなる一年前頃まで、新崎盛暉さんの経営者としての側面を私にぶつけてみたい、と言ってくれた。もちろん、私にはそれを受けつける力がなかった。それでも、商人としての私に何かを見ていてくれた。映画制作者でもなく、エコネット・美(ちゅら)の設立人でもなく、予備校教師でもなく、市民運動家でもなく、ひとりの商人としての私に接してくれた。資金のやりくりと、経営することの難しさに苦しむ私の姿を、はずすことなく、ほどよくピントを合わせて見てくれていた。元来が、経営などとほど遠い感覚しかない私を、ウチナー・ヤマトンチュー商人として見ていてくれたのが、私にどれほどの救いだったことか。私のなかに商人をかぎつけ、それでもなお「表現」にこだわる私に心を向け続けてくれた。

 『近代日本社会運動史人物大事典』の沖縄編集委員会のなかで、私に「仲宗根源和」を書くことをすすめてくれたのは屋嘉比さんだった。源和のものを読みすすめていくうちに、この人物を私にあてがった屋嘉比さんの眼力に驚いた。大変勉強になった。それは、三年前に制作したドキュメンタリー映画『未決・沖縄戦』に生きた。純粋なものよりは不純物のまじった人物に私が関心を持っていたことを、あの時すでに屋嘉比さんは見ぬいていたのだろうか。そして、土方仕事の好きな私を、どうやって屋嘉比さんは知ったのだろうか。私のように、夫としても、父親としても不合格な者に、夫としても、父親としてもまっすぐな屋嘉比さんが接してくれたことは、屋嘉比さんにとって辛いことだったかもしれない。「土方商人」こそが私の理想だったし、今もそうなのだ。

 だれからも愛される、というのは、地獄のようなものをぶらさげていることだ、と私は思っていた。屋嘉比さんはちがっていた。ほんとうに、だれからも愛され、愛した人だった。ふっくらとした屋嘉比さんの人ざわりに、だれもが触れたいと思っていた。こういう人間評価は、時に作品評価を曇らせることがある。屋嘉比さんの作品の評価を私はまだできない。能力が欠けているからできない。少なくともあと10年生きていてくれたら、私は、浜辺のジャングルで、屋嘉比さんの作品に向きあっていられるだろう。いや、その10年があれば、屋嘉比さんは、私が及びもつかない所で自らの井戸を掘りあてているだろう。その井戸は、「沖縄」を銭型から解きはなち、越境するローカルな知性として、人々の足下にとどいてるにちがいない。ゆったりとしたウチナンチューにとりついた病魔は、あまりにもせっかちにすぎた。

 屋嘉比さん。二人のお子さんは、会っていて実に気持ちのホッとする所がある人です。お父さん、お母さんの姿が、ほどよく垣間見える人です。いつの日か、二人をヌーファのじんぶん学校に連れて行って、海をながめてみます。かすんだ私の眼にも、屋嘉比さんが見えるかもわからないじゃないですか。

屋嘉比さん。酔っても歌のひとつも出ない屋嘉比さん。私は、屋嘉比さんが気に入ってくれた例の「街のサンドイッチマン」を浜辺で唄って、ちっとはマシな土方商人になろうと、そう思ってます。

お元気で!

頓首

2010.10.6  輿石正

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