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2011年5月

2011年5月16日 (月)

ドキュメンタリー映画『10年後の空へ』制作・備忘録 (2)映画への初めの一歩

 「シネマトゥデイ」という所が、『10年後の空へ』の紹介(?)記事をネット上にアップしてくれ、それがあちこちに配信された。アクセスが多いようで、見知らぬ人からメールが届く。私は、ネットとは縁遠い男なのだが、現代日本の状況を実感せざるをえない。もともと、この映画の紹介は、沖縄の地元紙「琉球新報」の取材においてなされた記事であった。割と大きく扱われたせいか、それを「シネマトゥデイ」が見つけ、広まっていた。

 空の映画をつくろうと思ったキッカケを記しておく。

 4月16日、宜野湾市海浜公園で「琉球海炎祭・花火イリュージョン」という大そうハデな、今年初の花火大会があった。私は、全く知らなかった。私の予備校の生徒のひとりが、この花火大会のチケットをもらったから、村重さん親子に使ってほしいと言ってきた。私は行く気がなかった。空が、見たい!と言ってきたので、車の運転手ぐらいの気持ちで行った。どハデな演出によるこの花火大会は、沖縄で一番大きなものだということが行ってみてわかった。音楽のうるささに閉口しながら、次々に打ちあがる花火を見ていた。記念にと思っていつものようにビデオカメラを持っていった。花火を見ている空を撮っていた。アップしたとき、空の瞳に花火、そして暗闇にかすかに見えるお母さんの顔を斜め下から撮った。その二人の表情と情景が、『10年後の空へ』というドキュメンタリー映画をつくろうとした直接的なキッカケであった。とは言っても、どうして、それがと思われるかもしれないが、私にもそれ以上の説明はできない。強いていえば、そこに<人間>が見えたからである。被災者ではなく、ごく普通の人間としての空とお母さんが私にはっきり見えてきた。私が映画をつくろうと思うときのキッカケは、私自身が、その対象側を「人間」として、愛着を持ったときである。それ以外はいらない。その愛着の出所を掘り下げていくこと、それが私のドキュメンタリーづくりの基本である。

 花火大会の帰りの車中で、私はお母さんに、空の映画をつくりたい、と言った。ストーリーもなにもできているわけではないが、私という人間を、10年後の空に交わらせたいと思った。その「私」は、ここ15年間、沖縄の米軍基地移設問題で、苦しんできた「私」であった。さらに「がんばろう日本」、「ひとつになろう日本」、・・・画面・紙面がどこもかしこも連呼することへの、私の違和感がそこにあったことも確かである。くり返されるこれらの標語がなんとも気味悪く、私はなんとかそれらから身を離したかった。そういう「私」で、10年後の空と話がしてみたかった。58年間の差を縮めて空と話すことが、今回の地震・沖縄と原発問題に関する私のひとつの姿勢である、と思った。

 いつものように、ポンと一歩出て映画づくりにむかうわけだが、それからの葛藤は、これまたいつものようにすさまじい。それは、あたり前のことであって、苦しみとはちがう。体力がきつくなって眠れなくなる日が続くだけのことである。どんな仕事でも、よくあることだ。

 映画にすることは、空にも話した。”いいんじゃない。”が空の返答であった。「10年後の空」を今の空に想像してもらうことは難しい。その難しさは、空と私の人間関係の難しさである。58年の年月を超える何かが芽ばえるかどうかであり、私の中に、「10年後の空」を宿せるかどうかだろう、と思う。10年後に激しい拒絶が生まれることもあるだろうし、それを回避しながら作品を作ってみようとは思わない。10年後に、ハッピーな再会などと思ってもいない。だいいち、私が10年後生きているかどうかもわからない。実にのんきな「10年後」に足をすえて、「今」に賭けてゆく。

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2011年5月12日 (木)

ドキュメンタリー映画『10年後の空へ』制作・備忘録 (1)空との出会い

 3月18日に村重さん一家が福島県いわき市から私たちの寮に移ってきて、今日で60日になる。お父さんの光敏さんは4月の5日に、いわき市にもどった。大工さんの光敏さんは、阪神淡路大震災のときに、3ヶ月ほどボランティア活動をした。その時の経験をふり返って、いわき市にもどり大工としての力を生かしたいと言って帰っていった。原発の放射能を気にしながらの帰郷であった。お父さんは、若い頃からギターを弾き、コンサートなどにも出演していた。沖縄のブルース一筋のミュージシャン知念良吉さんが、いわき市でコンサートをした時の縁で沖縄に来ることになった。私とは一面識もなかった。知念さんから、名護の方で受け入れてもらえないか、との打診があったとき、私は即断し、受入れの意志を伝えた。羽田空港で一日キャンセル待ちをし、17日の最終便に乗ることができた。翌日、お昼に私たちの会社の一人、屋良好克がむかえに行った。その間に寮の一部屋の掃除を職員とすませ、すぐに生活できるように気がつく限り整備した。3時頃名護に着いた村重さん一家は、まさにとる物もとりあえず逃げてきた、といういでたちであった。その時はじめて村重空に会った。どこか不安げな顔の表情と、お父さん・お母さんをふりあおぐしぐさが忘れられない。

 58年前、福島県郡山市でくらした7歳の私と同じ年の空が1000kmもはなれた沖縄に、まるで私の写し絵のようにやってきたのだ。郡山市立開成小学校で、私は小学1年から3年までをすごした。今も、開成山の競馬場のまわりの桜をはっきりと思い出すことができる。1枚だけ残っている当時の写真は、桜を片手に持ち満面の笑みをうかべて兄と姉と母といっしょにいるものである。その幼い私が、村重空となって帰ってきた気がした。本当にそう思えた。村重さん一家の話すことばのなまりが懐かしく、私は無性に、空との距離をちぢめたいと思った。

 どうしたことだったか、村重さんが名護の私どもの寮に入って、翌日、私は、私たちが15年間続けているエコツアーの拠点(浜辺のジャングルに設けたすべて手作りの施設)・じんぶん学校に村重さん一家を連れていこうと決めた。その日の夜、私たちの予備校の卒業パーティーがあることは決まっていたのだが、どうしても、ヌーファのじんぶん学校に連れていきたかった。沖縄の大自然に接すれば、何かが生まれると思ったのだろうか。震災後のあとかたずけで、村重光敏さんは、左足をかばってしか歩けないのに私は、けわしい山道を下りじんぶん学校の施設へ連れていったのである。何かの出会いがある、と直感したのは、何かの熱病だったのだろうか。その後しばらくして、その時のことを、「あれで救われた気がした」と空のお母さんの嘉子さんい言われて、どんなにホッとしたことか。眺望のいい崖の上で沖縄の海を見てもらったとき、空は両親にむかって「すごくない!」と小さく叫んだ。15年間山道づくりと修理にあけくれた日々は、この空のことばで救われた。記念のビデオでもと思って撮った。

当時、いつまで村重さん一家が名護にいるのかなど全くわからなかったし、空の映画をつくるなど思ってもいなかった。原発の放射能から、自分の子供を守るという一心で沖縄に逃げてきた一家をなんとかしたいという私のあせりにも似た気持ちが、そうさせただけであった。村重さんご夫婦の実に実直で地味な性格を私はすこぶる気に入ってしまった。

 米軍基地の名護市辺野古沖移設をめぐり、その15年間は私にとっても長く苦しいものだった。地域を二分し、お金が乱れ飛ぶなかでの心の荒廃といがみ合いに疲れ果てていた。その苦しみが、村重さん一家の苦しみと重なりあった。沖縄と福島が村重さん一家をとおして、私のなかで分かちがたいものとなっていった。子犬のように私は村重さん親子にじゃれていった。しかし、空の映画をつくることになろうとは、全く思うことなく一ヶ月がすぎていった。4月7日には、空は名護市立名護小学校の始業式に出て、文字どおり名護人(ナグンチュー)になった。もう一ヶ月以上がたつ。

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