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2012年6月

2012年6月25日 (月)

「シバサシ」備忘録①

■今まで、短いものをふくめて、10本ほどの映画をつくってきた。「はじめは、だれでも初心者」ということばに支えられてつくってきたのだが、いまだこの呪文から自由になれない。

■安里清信(あさと・せいしん)さんのことを知ったのは、もう17年も前である。私(たち)が沖縄に移住してくる3年前に安里さんは亡くなっている。今から30年前のことである。最初に読んだものは、『新沖縄文学』に安里さんが書いた短いエッセーである。『跳梁する妖怪』という題で、不思議なほど体に残り続けた。2年前、北海道に住む花崎皋平(はなさき・こうへい)さんから送られてきた『田中正造と民衆思想の継承』を読んだのが、この映画づくりの直接のキッカケとなった。沖縄の人たちの記憶から消えつつあるこの人物を、北海道の花崎さんがずっと温めていたことに感動した。私が花崎さんの文章が好きなこともあるのだが、花崎さんが沖縄に来られたときお会いし、私はひそかにこの『シバサシ』にとりかかろうと決めた。

■この映画もいつものように、偏執狂のように年譜づくりから始まった。実は安里清信さんは私の父と同じ年で、しかも戦争中朝鮮に行き子供をもうけたのも同じであった。私は、朝鮮からの引揚時に母の腹の中にいた。年譜をつくっているうちに、どんどんのめり込みが始まり、資料あつめ、インタビュー、年譜の訂正をいったい何回やったことか。安里さんの生地屋慶名(現在のうるま市屋慶名)がよいが始まった。夜中、授業が終わって11時頃から出かけ、安里さんが植えたモクマオウ林に独りで行き、その根元にすわってタバコをすうのが楽しみになってきていた。いったい、何を考えていたのか。

■この映画づくりを支えてくれたのは、崎原盛秀(さきはら・せいしゅう)さんだった。本当にお世話になった。この映画は崎原さんによって拓かれたといっていい。ガンの手術のあと、今は畑仕事をしながら市民運動の側に身を置きつづけるこの沖縄人(ウチナンチュ)にどれだけお世話になったかわからない。計5時間近くインタビューをし、教えてもらった。

■この映画にも使わせてもらった、フィルム『琉球列伝-島小ヮ‐』に出会えたのも大きかった。所々カビが生えて見れない所があるドキュメンタリーなのだが、その制作姿勢は私を刺激し続けた。ドキュメンタリーというのはこういうものだと教えられた。松田優作のナレーションがこのドキュメンタリーを光らせた。ほとんど、人の眼にふれることなく埋もれよ

うとしていたこの作品に出会えたことに感謝である。私などはまだ足下にも及ばない。

■いれい・たかしさん。この人の文章は、私はことのほか好きである。おそらく安里さんと対談した人の中で、いれいさんほど安里さんが心を許した人はいないように思う。安里さんは有名な人があまり好きでない。大和人(ヤマトンチュ)も好きでない。いれいさんと話をしているときの安里さんは実に楽しそうだ。酒がいくぶん入って、白イカの話になるときなど、もう対談もくそもなく、上半身はだかのステテコ姿の安里さんは、ウチナー口で縦横無尽の自由人になっている。うらやましかった。いれいさんも、もう亡くなってしまった。お会いしたこともないのだが、どこかに親しみのヒモを結びたい人だった。

■安里清信さんになんとかつながりたくて、お墓に行った。今では分骨されて別の墓に入っているとのことだったが、お墓を探しに行ったことは忘れがたい。だれかに導かれたように大きな亀甲墓についた。草がいっぱいで、私は夢中になって草抜きをした。見上げると樹々がうっそうとおおっていた。西陽が樹々の間からもれ、小山の頂で大きくタバコをすった。

■今回映画の中には入れられなかったもので、記しておきたいものがある。

ひとつは泡瀬の埋立てのシーンである。「夢の実現!」として大きな看板が立っていた。老人会、商工会、婦人会、PTA連合会などなど、20も余る団体がその夢の看板に列記されている。ヨットハーバー、ビーチ、アメニティ広場など夢の絵がでかでかと描かれていた。4回ほど撮影に行った。行くたびに、この映画をどんなことをしても完成させる、という気持ちがわいてきた。ただ、安里清信さんの映画の中にはどうしても入れたくなかったのはなぜか。

■そんなこんなのてん末を、まず書きとめておくことにする。

 

2012/06/23 輿石記

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