2012年8月 9日 (木)

「シバサシ」のダイジェスト版 

シバサシのダイジェスト版をyoutubeにアップしました。

↓  ↓  ↓  ↓

http://www.youtube.com/watch?v=ZTcGbz-gLMc

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2012年6月25日 (月)

「シバサシ」備忘録①

■今まで、短いものをふくめて、10本ほどの映画をつくってきた。「はじめは、だれでも初心者」ということばに支えられてつくってきたのだが、いまだこの呪文から自由になれない。

■安里清信(あさと・せいしん)さんのことを知ったのは、もう17年も前である。私(たち)が沖縄に移住してくる3年前に安里さんは亡くなっている。今から30年前のことである。最初に読んだものは、『新沖縄文学』に安里さんが書いた短いエッセーである。『跳梁する妖怪』という題で、不思議なほど体に残り続けた。2年前、北海道に住む花崎皋平(はなさき・こうへい)さんから送られてきた『田中正造と民衆思想の継承』を読んだのが、この映画づくりの直接のキッカケとなった。沖縄の人たちの記憶から消えつつあるこの人物を、北海道の花崎さんがずっと温めていたことに感動した。私が花崎さんの文章が好きなこともあるのだが、花崎さんが沖縄に来られたときお会いし、私はひそかにこの『シバサシ』にとりかかろうと決めた。

■この映画もいつものように、偏執狂のように年譜づくりから始まった。実は安里清信さんは私の父と同じ年で、しかも戦争中朝鮮に行き子供をもうけたのも同じであった。私は、朝鮮からの引揚時に母の腹の中にいた。年譜をつくっているうちに、どんどんのめり込みが始まり、資料あつめ、インタビュー、年譜の訂正をいったい何回やったことか。安里さんの生地屋慶名(現在のうるま市屋慶名)がよいが始まった。夜中、授業が終わって11時頃から出かけ、安里さんが植えたモクマオウ林に独りで行き、その根元にすわってタバコをすうのが楽しみになってきていた。いったい、何を考えていたのか。

■この映画づくりを支えてくれたのは、崎原盛秀(さきはら・せいしゅう)さんだった。本当にお世話になった。この映画は崎原さんによって拓かれたといっていい。ガンの手術のあと、今は畑仕事をしながら市民運動の側に身を置きつづけるこの沖縄人(ウチナンチュ)にどれだけお世話になったかわからない。計5時間近くインタビューをし、教えてもらった。

■この映画にも使わせてもらった、フィルム『琉球列伝-島小ヮ‐』に出会えたのも大きかった。所々カビが生えて見れない所があるドキュメンタリーなのだが、その制作姿勢は私を刺激し続けた。ドキュメンタリーというのはこういうものだと教えられた。松田優作のナレーションがこのドキュメンタリーを光らせた。ほとんど、人の眼にふれることなく埋もれよ

うとしていたこの作品に出会えたことに感謝である。私などはまだ足下にも及ばない。

■いれい・たかしさん。この人の文章は、私はことのほか好きである。おそらく安里さんと対談した人の中で、いれいさんほど安里さんが心を許した人はいないように思う。安里さんは有名な人があまり好きでない。大和人(ヤマトンチュ)も好きでない。いれいさんと話をしているときの安里さんは実に楽しそうだ。酒がいくぶん入って、白イカの話になるときなど、もう対談もくそもなく、上半身はだかのステテコ姿の安里さんは、ウチナー口で縦横無尽の自由人になっている。うらやましかった。いれいさんも、もう亡くなってしまった。お会いしたこともないのだが、どこかに親しみのヒモを結びたい人だった。

■安里清信さんになんとかつながりたくて、お墓に行った。今では分骨されて別の墓に入っているとのことだったが、お墓を探しに行ったことは忘れがたい。だれかに導かれたように大きな亀甲墓についた。草がいっぱいで、私は夢中になって草抜きをした。見上げると樹々がうっそうとおおっていた。西陽が樹々の間からもれ、小山の頂で大きくタバコをすった。

■今回映画の中には入れられなかったもので、記しておきたいものがある。

ひとつは泡瀬の埋立てのシーンである。「夢の実現!」として大きな看板が立っていた。老人会、商工会、婦人会、PTA連合会などなど、20も余る団体がその夢の看板に列記されている。ヨットハーバー、ビーチ、アメニティ広場など夢の絵がでかでかと描かれていた。4回ほど撮影に行った。行くたびに、この映画をどんなことをしても完成させる、という気持ちがわいてきた。ただ、安里清信さんの映画の中にはどうしても入れたくなかったのはなぜか。

■そんなこんなのてん末を、まず書きとめておくことにする。

 

2012/06/23 輿石記

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2010年7月13日 (火)

『辺野古不合意』制作余滴  (1)2匹の子犬

 山原(やんばる)の海の空は、今(7月)が一番美しい。水平線がさまざまな顔ですっきりとひとつの線を描く。穏やかな丸みをおびた水平線の上は、透きとおった青。海の藍を、まっすぐにうすめた青。リーフの端にあたる波が白くかたまって、ザァーと内海(イノー)に帯状に広がっていく。海の雲のようだ。

 今、私は、ドキュメンタリー映画『辺野古不合意』-名護の13年とその未来-をつくっている。遅々としてすすまない。あせる。それでも、そのあせりを封印して、土曜日は決まって川の修復工事で一日をすごす。14年前に本格的に立ち上げた、基地に頼らない自前の地域おこし、「エコネット・美(ちゅら)」の拠点の川の修復工事である。66才の中村保さんと二人で。東村川田育ちの保さんの全身にみなぎる<山原への愛着>と<先見性>にひっぱられて、壮大な作業にとりくんでいる。3年先をみすえての手作業工事。川の流れをもとにもどすという、とてつもない構想に嬉々としてとりくんでいる。亀の歩みよりおそい遊捗がまたいい。山原東海岸のヌーファの浜辺のジャングルで、初老の子犬2匹による壮遠大な実験である。街のにおいは全くない。2匹の子犬は、それぞれ自分の持ち場で、別々に働く。会話は行き・帰りと昼食のときだけ。時々保さんの自作の歌が遠くから風にはこばれてくる。不思議なほど休憩時が同じで、きっと保さんもアダン林の下で海を見ながら、歌っているのだろう。私は、ユウナの樹林の下で海を見ている。だあれもいない。風と鳥と波。極上の静けさ。

 私よりも2才年長の保さんは、ノグチゲラの研究で知る人ぞ知る山原人(ヤンバルンチュー)である。『ノグチゲラの里から地球の未来へ』というドキュメンタリーは、その中村保さんのノグチゲラ研究の集大成ともいえるものである。ノグチゲラという絶滅危惧種(CR)が世界ではじめてウラジロエノキという営巣木で子育てをしたシーンを撮影しながら、私の心は、30年以上もノグチゲラを追い続けてきたひとりの風狂の人・中村保さんを描いてみたいと思っていた。保さんの尽力で、東村は今年の6月に「ノグチゲラ保護条例」を制定した。ひとりの人の変えられない愛情が、「条例」を支えた。

 私は、今も月曜日から金曜日まで週26コマの授業をしている予備校経営者である。朝から夜まで、高3生・大受生を教え、夜10時から映画の編集にとりくんでいる。映画づくりが遅々たるのも当然である。撮影は99%自分でする。(自分の撮ったものでないと納得がいかない。)屋良好克という編集人といっしょに制作している。若い彼に、何かを伝えようとしている私がいる。それが、作品そのものの中に表れてほしいと思っている。予備校教師、エコネット・美作業員、そして映画づくり。3つの陽だまりのなかで生きている。私は「商人」という肩書きが一番好きだ。授業料、ガイド料、入場料(もしくはDVD販売費)で生計をたてている商人である。「予備校教師」、「ガイド」、「監督」は部分名にすぎない。

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2009年10月14日 (水)

悼画・『金城祐治さん』制作記録

辺野古、「命を守る会」の代表であった金城祐治さんが亡くなって二年半が経とうとしている。誰にたのまれたのでもなく、祐治さんの追悼の映画をつくろうと決めていた。

 十二年におよぶ辺野古の闘いは、二〇〇四年四月十九日から始まったテント村での座りこみだけでも二〇〇〇日を越した。祐治さん亡きあとも、安次富浩さんと当山栄さんらを中心にとぎれることなく続いている。政権交代によって、米軍普天間基地の辺野古沖移設はいくぶん変わる可能性が見えてきたが、とても安心できる状態ではない。沖縄県内のたらいまわし・嘉手納統合案がささやかれるなか、十二年にわたる「辺野古の闘い」の蓄積は今後の反基地運動にも大きなヒントを与え続けるにちがいない。それにしても、十二年は長い。二〇〇〇日の座りこみとそこでの調査・学習・論議が、新政権にとってもどれほど「見直さざるをえない拠点」となっているか想像に難くない。今日も座りこみをしている人たちに、「本当にご苦労さま」と言いたい。

              映画づくりの動機

 私は、辺野古の座りこみに全部で二十回ほどしか行っていない。ほぼ毎日通勤の車で辺野古の海をみながら、今日も頑張っているんだな、と思っていた。集会などはできるだけ出ているが、自分に何かできることはないかと思い続けていた。つぶれそうな会社を経営する身でもなにかできないかと。仕事がら朝から夜十時までの授業で思うようにならず、焦る気持ちに押しつぶされそうになったのもしばしばだった。

 二〇〇二年に祐治さんにインタビューしたフィルムがとってあった。それを時々見ていた。二〇〇七年五月十九日に祐治さんが亡くなり、何か大切な宿題が躰にのこった。追悼の映画をと思っても私にはその中身がなかった。思いきって、奥さんの初子さんに会ってみた。何回目かのとき、祐治さんの幼年期の写真を数点見せてもらった。次に行くと、また別の写真が用意されていて、そんな時、初子さんの生い立ちと祐治さんの再婚のときの話もきいた。その帰りの車中で、悼画をつくる決心がついた。翌週祐治さんの生誕の地大阪に飛んだ。祐治さんのお兄さんの連れあいの金城映子(かねしろえいこ)さんに話をうかがった。大阪大正区時代の祐治さんの様子がわかってきた。祐治さんのお父さん金城長栄(かねしろちょうえい)さんと奥さんのはるさん(石川県小松出身)の写真を見た。大阪に来る前につくっていた祐治さんの年譜とつきあわせ、ひとつひとつ確認していく作業が続いた。半月後、再び大正区に入り、何人かの関係者の話をきいた。特に、金城さん一家が住んでいた「クブングワー」(窪地・低湿地帯)が知りたくてカメラをかついでうろつきまわった。夜、映子さんにクブングワーにあった金長運送のあった跡につれていってもらった。大正内港のすぐそばで、今ではテニスコートになっているそこにたたずんだ。その時、一九九八年に祐治さんといっしょに大阪の「住民投票」の全国集会に行ったときのことが鮮明に思いだされた。集会の帰り関西空港で搭乗までの間、外でふたりでタバコをすっていた。祐治さんは大阪方面の夜景が見える場所に行きそこにぺたんと座ってじいっと遠くの明かりを見ていた。その背中は、私が近づくこともできない何かがピンとみなぎっていた。実は、この悼画をつくりながら私は、その時の祐治さんの後ろ姿をそれこそ何十回も思いおこしていた。生後三十六年間をくらした大阪の地での祐治さんを知ることなしにこの映画はつくれないことはわかっていたが、その三十六年間につまっている祐治さんを、クブングワーに立ち、そして関空での後ろ姿と重ねあわせてようやく私にも少しずつ見えてきた。それは同時に、年こそちがえ、戦前、戦中、戦後をかけぬけるようにして生きてきた私の亡き父と母をたどることでもあった。

              嬉しかったこと

 この悼画が完成し、上映会をする前に祐治さんの奥さんの初子さんにチェックを入れていただいた。プライバシーに立ち入ることにもなった映画の性格上当然のチェックであった。「了承」という返事をいただき、上映会の二日前の十月一日に祐治さんの霊前にこの悼画をささげに行った。手を合わせていた私の横にちょこんと座っていた初子さんが突然床に顔をくっつけるようにして哭きくずれた。「私の知らなかったお父さんに会えた!」としぼり出すように言ってくれた。そして意外なことを口にした。「この映画を見て、私もお父さんもまちがったことはしていなかったと思った。だから、映画を見てすぐに辺野古の老人会に入った。これからはこの辺野古で堂々と生きていく。今日はヘルパーさんの助手をしてきた。」と。この映画をつくってよかった、としみじみ思った。祐治さんが残した宿題のまだ半分も私は終っていないのだがひとまず出発の糸口は残せた。これからは、座りこみにはあまり行けないが、自分にできることをとにかくやり続けよう。県内のいかなる所にたらいまわしされることにもノーと言い続けよう、と思う。最後まで市井の人の態度を貫きとおして「差別はアカン」と闘いつづけた祐治さんの七十二年の生涯に続きたい。

 この映画の販売一本につき二百円は、辺野古テント村の活動資金として使ってもらうことになりました。

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悼画・『金城祐治さん』を制作してみて

 沖縄・辺野古の「命を守る会」の代表であった金城祐治さんが亡くなって二年半がたとうとしている。今月の十月一日、祐治さんの霊前に、この「悼画」をささげてきた。肩の荷がおりたのだが、映画からもれた多くの風景が私のなかに残された。

一. 初子さんと映子さん

 祐治さんの霊前にこの映画のD・V・Dをささげ、手をあわせていたとき、隣で座っていた奥さんの初子さんが突然顔を床につけるようにして哭きくずれた。嗚咽はしばらく続き、小さく「お父さんが喜んでいる」と何回もつぶやいた。完成前にチェックをしていただこうと初子さんにはそれ以前にD・V・Dを渡し、見ていただいていた。そのせいか、霊前に手をあわせていた私にむかって「よかったです。私の知らないお父さんに初めて会えた。大阪時代のことをあまり話してくれなかったので、今回初めて会った気がした。」と言って泣きながら喜んでくれた。

 初子さんは、私のたび重なる取材にいつも快く応じてくれた。この映画に出てくる写真の半分近くは初子さんの提供によるものであった。死別した祐治さんの最初の奥さん・昭子さん(京都出身)の写真も探しだして渡してくれた。初子さんのお父さん・栄門秀一さんは、二度目の召集で戦地グアムに行きそこで戦死した。初子さんはお父さんの顔を知らない。小さい頃、お母さんにお父さんのことを訊きたくてもきけなかったという。女手ひとつで子供たちを育てる苦労は、過去をひきずることを許さなかったのだろう。初子さんのなかで、「戦争」は「不在の父」と重なって残り続け、戦争を厭う気持ちが消えることはなかった。「命を守る会」の十年におよぶ祐治さんの新基地建設反対の行動の裏には、「厭戦」の感情を持ち続けた奥さん初子さんがいた。

 大阪での取材のとき、祐治さんのお兄さん(金城治さん)の奥さん映子さんに何回も助けてもらった。お父さん金城長栄さんと長男・治さんと祐治さんの三人で起こした「金長運送」は、今では株式会社新陸運輸と称号を変え、大阪大正区で営業を続けている。映子さんが社長をつとめている。石川県出身の映子さんは、歯ぎれのいい人で、「祐ちゃんのためなら」と言って全面的に取材に協力してくれた。金長運送の初期に嫁いできた映子さんは、言うに言われぬ苦労をしてきた。「クブングワー」と呼ばれていた窪地・低湿地帯のなかにバラック建て家屋兼仕事場であった金長運送。映子さんは、「なんでこんな所に嫁いできたのか。」と何回も思ったと言う。雨になると長ぐつをはかないとダメな地で、八人にのぼる大世帯の台所仕事・子育てそして運送業の手伝いとフル活動の日々であった。

 映子さんが語ってくれたことで、映画にも取り入れることもできず、またここに記すこともできないものもある。映子さんから上映する前に見せてほしいと言われたのもそれと関係がある。D・V・Dを送って私はドキドキしながら映子さんの返事を待った。映画が着いた翌日に電話があった。戦時中の祐治さんそして沖縄に渡ってからの祐治さんについて、「コシイシさん、私は本当に知らなかった。祐ちゃんがあんなだったこと、本当に知らなかった・・・」と言って電話口で声をつまらせた。そして、「ありがとう。お父さん(治さん)の霊前にそなえました。」と言ってくれた。映子さんにとって、この映画は、祐治さんを偲ぶだけでなく、無我夢中でかけぬけた昭和の中の、誰にも言えぬ胸の内を独りでなぞることにもなったのだろうか。お父さんの長栄さんが亡くなり、辺野古の生家・川端家の後継ぎ問題がおきたとき、映子さんが、「沖縄には行かない。金長運輸を守る。」と言いきった裏にも映子さんのこの「胸の内」があった。そしてその決断が、祐治さん一家の辺野古への移住をうながしたのだった。

二. 辺野古・「命を守る会」の根もとには

 戦前・戦中・戦後を三十六年間大阪で生きてきた祐治さんが身につけたもの。それは、「まじめに働く」、「戦争はダメだ」そして「差別はアカン」であった。それらは戦争をくぐり、厳しい差別を受けながら焼け跡で生きてきた人間が体にしみ込ませたものだった。その態度・姿勢は沖縄に移り住んでも変わることはなかったし、変えられるものでもなかった。それはそのまま辺野古の新基地建設ノーの運動にも貫かれた。辺野古の反対運動支援にかけつけた本土の若者たちが、辺野古に来ると今も祐治さんの霊前に手を合わせにくるのは、祐治さんの変わらぬ態度・姿勢がすっと心に入り、忘れがたく心の底に残り続けているからだろう。そしてその態度・姿勢は、今の辺野古テント村にも息づいている。二〇〇〇日におよぶ座り込みは、そんな生き方のもとに積み重ねられていった。テント村は、さまざまな人たちがそれぞれの思いを抱いて立ちつくした互いの学びの場でもあったのだ。

 全六章から成る悼画『金城祐治さん』が、一人の市井の人の七十二年間の軌跡をふちどり、今後も辺野古テント村を訪れる人々に何かを伝えるドキュメンタリー映画であってくれたら嬉しい。

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悼画・『金城祐治さん』が出来るまで

 享年七十二才。辺野古・「命を守る会」の代表であった故金城祐治さんの追悼の映画を製作した。二年半ほど前に亡くなってから、ずいぶん経ってしまった。大阪での取材をしても足腰が定まらず、資料の山のなかでのたうちまわった。二回目の大阪取材で、祐治さんのお兄さん・金城祐治さんの奥さんとじっくり話してようやくシナリオの骨格ができあがった。

 金城祐治さんは、一九三五年(昭和十年)二月十九日に大阪市生野区で生まれ育った。国民学校一期生として生野国民学校に入学し、戦争を体験し大阪で三十六年間をすごした。お父さん・金城長栄さんが大正十二年頃大阪に出稼ぎに出て、石川県小松市出身の吉田はるさんと結婚し六人の子供をもうけ、祐治さんはその次男坊であった。中学校を出て、お父さんとお兄さんが立ちあげた金長運送に加わり辛酸をなめつくした。その辛酸には前ぶれがあった。小学時代から受けた「ウチナンチュー差別」であった。新聞配達時代に受け続けたこの「差別」と、朝鮮の人たちから受けた「優しさ」をずっと手放さずに生きてきた。生野区から大正区に引越して金長運送を本格的に始めたときも、沖縄人集落にいるが故の「差別」をまともにあびてきた。大阪にいる沖縄の人が「クブングワー」と呼んでいた低湿地帯に住むが故の「差別」であった。敗けてたまるか、という気持ちだけが支えで生きぬいた。

 お父さんの病死(享年五十四才)による後継ぎ問題がおきてきた。紆余曲折の末に祐治さん一家がお父さんの生地辺野古に移り住むことになった。沖縄の本土復帰の一年前であった。沖縄バスに運転手として入り、沖縄バス労働組合に入り、現業労働組合員として二十年間勤めあげた。定年退職をむかえマンゴー農民として余生をおくることになっていた矢先に、普天間米軍基地の辺野古沖移設(新基地建設)問題がおきた。この新基地建設を、「沖縄に対する差別」と受けとめた祐治さんは立ちあがってしまった。六十三才であった。持病の身でありながら、祐治さんの体の中にずっとあった「差別はアカン」、「戦争はダメだ」という二つが祐治さんをつき動かした。辺野古の人たちからは、「ヤマトンチュー」として見られていた祐治さんは、ただ一点〈差別〉に対するたったひとりの反乱を決行した。多くの仲間がそれを支えた。十年間にわたる闘いは続き、テント村での座り込みは、今月九日で二〇〇〇日をむかえた。市井の人・金城祐治さんの飾らぬ人柄とえらぶらない態度は、今も辺野古を訪れる人々の心の支えとなっている。

 多くを語ることのなかった祐治さん。それだけに映画づくりは大変であった。しかし、大阪時代の祐治さんを追いかけていくなかで、私は実に多くのものを勉強させてもらった。自分の信念を、時代の変化の側に横すべりをおこさせることなく、「差別はアカン」というシンプルな原理を貫きとおすことの裏にあったものに、あらためて向きあわせてもらった。

 辺野古の闘いの根もとには、こうしたウチナンチュー2世の金城祐治さんがいたことをきちんと記録しておきたい。

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2008年5月20日 (火)

『未決・沖縄戦』の映画をつくるにあたって

 この映画をつくらなかったら、これほど沖縄戦について向き合うことはなかった。現在(いま)の沖縄そして現在(いま)の日本を知ることのひとつの足場をさがす、苦しくとも楽しい旅だった。

 沖縄北部山原(やんばる)の字史・字誌・個人史を読みあさるのはすこぶる楽しい時で、眼が疲れると、カメラを担いで山原・伊江島をうろつき、証言者と向き合った。証言者がカメラに慣れてくれるまで待ち、一人に数時間の撮影だった。人を撮ることは難しい。ましてやその人の奥ゆきを撮ることは私にはまだできない。画面の中に発せられることばにカメラをまわしていることを忘れることもしばしばだった。

 スタッフが地図をつくり、色ぬりをし、編集し、HPを立ち上げたり、予約先のリストを作ってくれたりするのを見ながら、どんどん細部にこだわる自分が怖ろしかった。伯父や義理の伯父が20代で沖縄の地で戦死していることが、時々思い出されて、カメラをまわすことを忘れてしまう。時が逆回転し早送りの中でまっすぐにたって見えるときがあった。

 有事法制化、憲法改正へと突き進む21世紀の初め、沖縄を定点観測的に記録し続けたい。証言を拒む人に出会った時のあの充実感とホッとした気持ちはなんだったのだろう。<証言>を撮るとは証言を拒む人、そして証言のできない死者に出会う渡し舟のようなものだろう。行き先のさだかでないその渡し舟にゆられる時が一番楽しいときだ。その渡し舟は自在にとびまわり、気がつくと森の中にそして壕の中に入っていって見知らぬ眺望がひらけてくる。

 私の「戦争」は、戦場や戦闘になかなか向いてくれなく、収容所に送られる人、避難民、朝鮮人軍夫、朝鮮人慰安婦、そして戦争直後の沖縄のカオスへと迷いこんでいく。そこが一番落ち着くし、緊張もする箇所だった。

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この映画は山原での沖縄戦の時期と重ね合わせるようにして撮り続けられた。当時はどんな季節だったのか、雨は、風は、温度は、がいつも気になっていた。授業と授業の間にカメラを担いで出て行く私を支えてくれた職場の人たちに支えられた映画だった。何十時間もフィルムを使い、図書館に走り、車に飛び乗り、船に飛び乗り、証言者に会いに行き、取り直しを続けることを許してくれたスタッフに本当に感謝している。     

    

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